月刊敬和新聞

2019年6月号より「時間をかけて心を尽くして」

校長 中塚 詠子
擬態と模倣
 動物の色や形が何かほかのものに似ることを擬態といいます。背景に似せて目立たなくするものは保護色や隠蔽色と呼ばれます。逆に目立つことによって敵や獲物を欺くものがあります。たとえば毒をもつ種をまねる警告色などや、何種類かの動物が同じような色や形をもつことで敵を欺くもの、餌をおびき寄せるための擬態もあります。植物にも食虫植物が花に似せた葉を持ったり、ハチの雌に似せた花で雄バチを招き寄せるラン科植物などの擬態が有名だそうです。
 人間には擬態はありませんが、擬態によく似た振る舞いを時々見かけます。憧れの芸能人のファッションや化粧をまねることもあります。昨年引退した安室奈美恵さんをまねたアムラーと呼ばれた若い女性が街に溢れ、社会現象になったことなどその代表です。
 生き方や考え方をまねることもあります。スポーツで目標にしている選手を参考にプレイすることもありますし、バンド演奏やダンスを完全コピーするのもそうでしょう。これは擬態というより模倣です。

模倣によって引き出される
 とても興味深い模倣の話を聞いたことがあります。今はスマートフォンで動画を取るのがあたりまえですが、一昔前、運動会はお家の方がビデオカメラを持って観戦する姿が多くみられました。子どもが生まれるとビデオカメラを買うご家庭も多くありました。家電メーカーの主力商品として、秋の運動会シーズンになると各社こぞってCMを流しました。
 その運動会シーンを撮影するエキストラに参加した方の話がとても面白かったのです。その方のお子さんが通っている小学校で撮影が行われ、生徒と保護者の希望者が撮影に参加しました。本当の運動会と同じようにプログラムがあり、競技が用意されました。エキストラと同じようにたくさんのプロの役者さんたちも撮影に参加します。この役者さんたちが一つ一つの競技で真剣に走り、玉入れを行い、応援も大きな声や大げさなパフォーマンスで盛り上げます。
 初めは恥ずかしがって冷やかにそれを眺めていたエキストラの人たちもだんだんつられて盛り上がり、最後の方はその学校で行われた本当の運動会以上の盛り上がりを見せたのだそうです。その盛り上がったほんの一部分がCMに使われたのです。本当の運動会ではないのに本当の運動会以上に盛り上がるとは不思議です。

模倣から自分らしさへ
 本当の保護者や生徒ではない役者さんが競技をリードすることで、エキストラが演技ではなく本当に競技を楽しんで行うという逆転現象が起こりました。良いお手本やリーダーを模倣することは人間の学習の第一歩です。ある程度の形を習得することができますし、そこそこの感じにまで仕上げることもできるでしょう。しかし、それは第一歩です。そこから先へは真似だけでは進めません。自分らしさや自分を見つめることが求められます。
 そこから「自分探し」が始まります。自分探しの自分とはいったいどこにいるのでしょうか。どこに自分があるのでしょうか。

私に与えられた私らしさ
 聖書では私たち人間は「神のかたちに創造された」と記されています。それは神様の真似をしたとかコピーされたとかいう意味ではありません。土のちりで造られた人間に神様は命の息を吹き込まれました。これは神様の性質を分けていただいたということです。
 一人に一つの命が与えられているということは、一人ひとりに特別な何かが与えられているということです。ですから擬態を取りつつも、模倣を重ねつつも、実は自分の奥深くにある神様から与えられた特別なものを掘り起こして見つけることが生きるということなのです。その掘り起こしの作業はとても地味で時間のかかることかもしれません。たぶんすぐには見つからないでしょう。
 敬和学園での三年間はその自分探しのきっかけを学ぶにすぎません。じっくりと時間をかけて丁寧に心を尽くして自分を掘り出してゆくのです。自信がなくても時間がかかっても大丈夫です。神様からあなただけに与えられたものがあなたの中にしっかりとあります。それを磨いて輝かせることが敬和学園の自分探しです。