毎日の礼拝

校長のお話

2019/06/13

「愛の学校」(ヤコブの手紙 4章14節)

先日、川崎市でスクールバスを待っていたカリタス学園の小学生とその保護者が無言で包丁を振り回す男に切りつけられる事件がありました。

その事件の後でカリタス学園のご出身で現在ノンフィクションライターとして活躍されている飯島裕子(いいじまゆうこ)さんが『「カリタス学園「愛の教え」さらなる分断を生まないために」という文章をブログにアップしました。

その中から飛び飛びの抜粋ですが紹介します。

 

カリタスとはラテン語で「愛」を意味する。カトリックの精神に基づいた学校であるのだが、そんな難しいことはまだわからない子どもたちに「カリタス=愛の学校だよ」と今は亡きカナダ人神父がいつも言っていたことを思い出す。愛とは男女の情愛ではなく、他人を自分のことのように思う「愛」である。

「他人を自分のように愛しなさい」そう教えられてきたであろう子どもたちを突き刺した刃。無辜の人々の命が突然絶たれてしまう理不尽。それは愛の精神を大切にしてきた学園そのものに突き立てられた刃のようで、打ちひしがれる思いがした。

そんな中、こんな報道があった。

助けに行くのも怖かった中、倒れた友達助けようとした生徒がいたこと。

「私よりもひどい人がいます」と首から出血しながらも駅警備員に必死で訴えた一年生がいたこと。

ほかにも「私たちがしっかりしなくては」と励まし合う子どもたちの姿が多数目撃されている。

ああそうだ。これがまさに私の知っているカリタスだ。

その後行われた記者会見。先生方の言葉は子どもたちの心と身体を何としても守るという強い覚悟に満ちていた。過剰な報道から子どもたちを守るために開いた会見だったとは言え、恩師のぶれない言葉と思いに少し心が和らいだ。

さまざまな憶測とコメントがSNSなどでも飛び交っているが、そこに満ちているのはまさに<愛>とは正反対の<憎しみ>である。

犯人への強い憎しみは私の中にもある。しかし、今回のカリタス小学校の子どもたちが巻き込まれた事件が、憎しみを増幅させ、恐れによる分断を人々の間に広げてしまうことだけは避けなければいけないと感じている。

同級生・同窓生の間では、悔しいけれど今現在、私たちにできることはほとんどないーー。それならば「祈ろう」と誰からともなく声があがり、その輪が少しずつ広がっている。

カリタス学園の教育は、他人を自分のように愛することで社会の分断をつくらない、生きづらさを抱えた人に寄り添う、教育であったとあらためて思う。

 

敬和学園も毎日祈りの時間が持たれています。

入試の時も、入学礼拝も、全校労作も、テストも、今日のような屋外活動の日も欠かすことなく毎日です。

祈って自分を見つめ、今日の課題に向き合うためのたった一人の時間です。

たった一人で神様に向き合う時間です。

一人に一つだけ与えられた命を今日あなたはどのように生かしますか?

かけがえのない他の日とはちがう「今日」という一日をどのように過ごしますか?

それが毎日問われるのが礼拝の時間です。

フェスティバル最終日です。

天候が気になります。

プログラムの変更があるかもしれません。

注意深く連絡・指示に従って行動してください。

ルールの中で競い合いますが、お互いを認め尊重し合う「愛ある」一日を作り上げてください。

あなたの命がより輝く一日をみんなで作り上げていきましょう。