今日のランチ

今日のランチ

2018/07/06

今日のランチ(2018.7.6)

チキンピラフ・シーフードサラダ・コンソメスープ・牛乳・ヨーグルト

0706

 

 

もうひとり、忘れられない先生がいる。

角田三郎先生である。先生は、佐渡教会の牧師を経て、敬和学園高校の寮長になった。

俺はその頃、生活指導主任をしていた。

角田先生は、靖国問題で戦う牧師として有名であり、「神人仏」の著作もある学者でもあった。

その先生は、海軍兵学校を出て、偵察機のパイロットになり、不時着した際顎の骨を砕いた経験もある。お兄様は、零戦乗りで、海上で撃墜され、九死に一生を得ていた。

剣道の達人で、兵学校時代、天覧試合を行った。

死線を乗り越えて来た人だから、気骨が違う。痩身だが、古武士の風格がある。しかし、普段は極めて柔和な人であった。

寮生全員にとって「良い羊飼い」であった。

二十年前は、生徒も元気で、やたらと問題を起こす。

毎日のように生徒指導の会議をやったが、その時、三十代の俺と六十代の角田先生は毎回、喧嘩になった。

問題行動を起こした生徒を謹慎にしようとすると、角田先生が反対する。

「罰を与えて悔い改めさせるというのは間違いです。人は、赦されて初めて悔い改めるのです。」先生は背筋をぴんと伸ばし、目を閉じて言う。

普通、悪いことを反省すれば赦すのだが、先生は悪いことをしたままの生徒をすでに赦しているのである。それは角田先生自身が自分の弱さを知り、赦されてきたことを知っているからだ。

「これは罰じゃありません。指導です。本人、教師が、自分自身と向き合うためです」と俺は反論する。

時に先生は、「人を裁くはかりで、自分自身もはかられることを忘れてはなりません!」と叫び、机をドンと叩く。

結局会議で謹慎が決まると、なんと角田先生は断食に入る。

靖国闘争の時にもハンガーストライキをやった人だから、本物の断食だ。

「先生、お体にさわります。止めてください」と俺が言うと、

「生徒が苦しんでいるのです。わたしも苦しまねばなりません」と言う。

謹慎になった生徒は大変だ。大好きな寮長が自分のせいで断食しているんだから、必死で反省する。

どうしても学校を去らねばならなくなった寮生がいた。

先生は、毎週その生徒の家に通い、勉強を教え、次の学校が決まるまで面倒を見た。

 

良い羊飼いとは何だろう?

囲いの中にいる羊の世話をするだけではない。

時に迷い出た羊を追いかけ、気づいてみると囲いからはるか遠くに来てしまうこともある。

そこは薄暗く、寂しい森の中だ。

その寂しい森の中に、一人ぽつんと泣いている小羊がいる。

良い羊飼いはその小羊を抱き寄せる。

そして、どのように暗く寂しい森の中にも、神がともにいて下さったことを知る。

なぜなら、その小羊こそが、神だからだ。

一方、囲いの中の羊たちは大人しく待っている。

良い羊飼いが小羊を連れ戻ると、囲いの中に喜びが広がる。

本物のよろこびだ。

そして羊たちは、もし仮に自分が迷子になっても、羊飼いは必ず助けに来てくれると信じる。

 

敬和学園の50年の歴史は、「破れの歴史」だ。

わたしたちは多くの過ちを犯してきた。

それでも神にゆるされ、学園が存続できたのは、わたしたちの中に、赦しがあったからだ。

教師自身が不完全なものであるがゆえに、過ちを犯した子供たちをゆるし、信じる。

その同じはかりではかられ、赦されてきたのだ。

もし敬和が生徒を裁けば、その同じはかりで裁かれていただろう。

そもそも神が赦されたものを、わたしたちが罰することなどできはしない。

角田先生は、そのことを俺たちに教えてくれた。

 

学校というものは、伝統校になればなるほど、小羊よりも囲いのほうが大事になる。

囲いを脅かす羊は決して赦されず、追い出されてしまう。

囲いを飛び出して小羊を探しにゆく羊飼いもいなくなる。

良い羊飼いとは、迷い出た小羊を探しにゆく者ではなく、囲いをしっかり守るものが良い羊飼いとなる。

囲いに監視カメラをつけ、鉄条網を張り巡らせ、「安全、安心」と呼ぶ。

いつ何時クレームを受けても対応できるように、羊飼いに徹底的な危機管理を教え、過ちは赦されない。万が一に備えて、弁護士を雇う。

囲いの中がいかに美しいかばかりを宣伝し、囲いの外に迷い出た小羊については沈黙する。

なぜなら、それは恥ずべきことだからだ。

やがて、生徒を守るはずであった囲いが、生徒を苦しめるようになる。

生徒のための学校ではなく、学校のための生徒になる。

生徒一人と天秤にかけるには、学校があまりにも立派で美しくなりすぎたのだ。

 

大切なのは囲いなのか?羊なのか?

囲いがなければ、羊全体の安全が脅かされる、ということもあるだろう。

そんなことは分かっている。

だが、究極の場面に立たされた時、わたしたちはどちらを大切にするのか?

 

榎本先生や角田先生は、そのような場面で、常に学校の枠組み、対面ではなく、生徒を大切にすることを求めた。

その結果、学校の枠組みが広がり、学校が成長できた。

一人ひとりを大切にする、とは、問題を起こさない良い子を大切にすることじゃない。

その一人とは、迷い出た羊のことだ。

迷い出た羊は、弱々しく、哀れな姿をしていることもある。だが、憎らしく、悪態をつき、自分で飛び出してゆくこともある。

どこまで一人を追い求めることができるのか?

それが榎本先生や角田先生が若い俺たちに求めたチャレンジだった。

「じゃあ、良い子はどうなってもいいのか」という疑問を何度も投げかけた。

それに対して、「問題のない良い子などひとりもいない」というのが先生たちの答えだった。

どれほど良い子に見えても、みんな迷いでた小羊と同じやるせなさ、せつなさ、どうしようもなさを抱えている。毎夜出た小羊の問題は、己の問題なのだ。そして他者に投影された己の問題に、大人がどう向き合うのか、じっと見ている。

幸運にもそれを乗り越えることができたなら、そのせつなさ、やるせなさ、どうしようもなさは、決して無駄にはならないことを学ぶ。

仮に乗り越えられずとも、共に苦しむ人があることを知る。

 

榎本先生、角田先生のことを思い出しながら、我が身を省みた。

果たして俺たちは先生方の教えをちゃんと守って来れたのだろうか?

神の愛する、一人一人の小羊を本当に大切にすることができただろうか?

精一杯頑張ったつもりだった。

しかし実際は、神が愛したものを、どれほど軽んじてきたことだろう。

神が赦したものを、どれほど裁いてきたことだろう。

それにもかかわらず、どれほど多く赦されて来たことだろう!

たとえ敬和が見捨てようとも、神は決して小羊を見放されなかった。

神にとっては敬和生であるかどうかということは、問題ではなかった。

その愛がなければ、敬和はどうなっていたことだろう!

 

試験監督をする教室は静まり返っている。

真剣な眼差し、鉛筆の音、時折聞こえる衣擦れ。

窓の外を眺めると、静かな雨が降り、校舎も木々もしっとりと濡れている。

今日も敬和学園は緑の森の中にたたずみ、生徒達は一生懸命、それぞれの生を生きている。

(T.H)