月刊敬和新聞

2018年5月号より「元気のみなもと」

校長 中塚 詠子

ゆっくり時間をかけた準備

 敬和学園では創立以来毎朝の礼拝を大切にしています。それは他のキリスト教学校でも同じです。同じなのですが、そのやり方や雰囲気は学校や教会によってずいぶん違います。ある教会に招かれてお話を担当したときのことです。そこで体験した礼拝は私に大切なことを教えてくれました。
 その教会は施設の中にある教会で、礼拝は日曜日の午後に礼拝室で行われていました。教会らしい建物ではありません。礼拝出席者はストレッチャーや車いすを使われている利用者さんがほとんどで、さらに病気や体調不良を抱えている方も多くいらっしゃいました。言葉を発するのもゆっくりで、何度かお邪魔していますのに私は未だに聞き取ることができずに聞き直すことがしばしばです。
 その教会は利用者さんの体調を考えて礼拝は短めで30分ほどです。けれど礼拝前のお祈りの会に結構な時間が費やされます。その礼拝前の準備祈祷会が素晴らしいのです。そこに集うすべての人が一言ずつ祈るのですが、「熱が下がって礼拝に出られます。ありがとうございます。」とか「(おかゆではなく)普通の食事に戻って嬉しかったです。」という祈りが献げられます。言葉がゆっくりの方が多いのでその方が声を出してくれるまでみんなじっくりと待っています。声を出そうと努力して時間をかけてやっと言葉になる方もいらっしゃいます。そういう方の絞り出すような「アーメン」だけの一言の祈りが大変心に染みるのです。毎週礼拝にあたりまえに出席することが難しい体調や病気がある中で、今ここでみんなと礼拝しようとしている喜びが短い一言にダイレクトに込められているのです。

元気になる礼拝
 そうして準備して始まる礼拝がさらにとても楽しいのです。笑いに満ちています。お話の中で「こんな時皆さんはどうしますか?」と問いかけると大きな声でわたしはこうだとかそれは誰々さんだけでしょ?と合いの手や突っ込みが入ります。その都度笑い声が溢れる礼拝なのです。
 その礼拝に出席すると私はとても元気になります。やる気になります。どうしてなんだろうと考えました。理由の一つは施設の中にある教会、つまり暮らしの中の礼拝だということです。「日常の中で神様が共にいてくださるのだということをよりはっきりと確かめられること、共にお互いの存在を確かめ喜び合えることだ」とその教会の牧師は教会総会資料で述べていらっしゃいます。それぞれの存在を喜び合いそこに集えることに感謝する。あたりまえと思えることがあたりまえではないのだと気づく経験でもあります。

毎日の暮らしの中で
 改めて敬和の礼拝もそうなのだと気づかされました。敬和の学校生活・寮生活の中にある礼拝です。あたりまえのように毎日同じ時間に行われる礼拝も一人ひとり事情は違います。そして一人ひとり昨日と今日と明日と毎日違うのです。気分が乗らない日、体調が優れない日、誰かとケンカして心が重たい日、しっかりやろうとリセットした日、好物がランチに出る日、やる気に満ちている日、笑顔の日、渋い顔の日、いろいろです。そこに集えない人ももちろんいます。集えない人にも心をはせます。落ち着いて自分と向き合います。自らの存在を認めます。ひょっとしたらその人にとっていやなことやマイナスなことを抱えながらも登校して礼拝の座席に座っている人もいるかもしれません。自分の頑張りを自分で褒めていいですよ。今日をどのように生きていくのかを自分に問い、人間の力を超えた存在に尋ねることから学校生活を始めることができたのならば、その一日は自分の思いを超えて豊かに広がっていくでしょう。暮らしの中の礼拝はこうして私たちの生きる力へとなっていきます。
 毎日の暮らしはあたりまえではありません。視点を変えて眺めてみるとたくさんの偶然やいろいろな方の配慮で支えられていることが多くあると気づきます。その気づきを重ねていくことができたならばさらに自分のことが好きになるに違いありません。敬和での生活がますます充実していきます。やる気や元気のみなもとは思いの外近くにあるのです。