月刊敬和新聞

2018年3月号より「15年間お付き合いいただき感謝いたします」

校長 小西 二巳夫

葦の会(不登校を考える親の会)
 校長になって15年間続けてきたことがいくつかあります。その一つが葦の会(不登校を考える親の会)です。先月末のことですが、急な用事で県外に出かけることになりました。車に同乗させてもらったので、安心して後ろの座席でうつらうつらしていました。時計を見ると1時間以上走っています。高速道を使ったにもかかわらずまだ県内です。新潟県が縦に長いことを実感していましたら、信号機の下の地名プレートが見えました。ハッとしました。県境の、その地域からも敬和学園にやって来てくれる人たちがいます。遠方ですから寮に入ることになります。私がハッとしたのは、その地域からほぼ毎月一回夜に開いている葦の会に出席されていた保護者がおられたからです。時間とエネルギーを使って毎月のように往復されたのです。わが子の学校生活を何とかしたいとの思いをもって長い距離を運転されたのです。車の中で一人何度も涙を流されたに違いありません。

誕生カード
 毎月続けてきたことに子どもたちに誕生カードを渡すことがありました。全校生徒600数10名ですから、ひと月に60枚程度です。広報の山田さんに季節にふさわしい写真を使ってポストカードを作ってもらいます。そして「山吹」「古代紫」「鉄色」と命名されている顔彩(日本画の岩絵の具)と筆で聖書の言葉を記します。今年は「平和を 実現する人は 幸いである」でした。次にその人にふさわしい言葉を「深海」「紫式部」「天色」と名づけられたカラフルなインクで書きます。「お誕生日おめでとう」の次に「敬和の中心的な役割を果たすときになりました。その自覚が自分を大きく成長させてくれます」などです。6限が終わったショートホームルームの時に直接手渡しをするのが基本ですが、最近は時間が取れずクラス担任に渡してもらうことも少なくありませんでした。

卒業祝福礼拝での二言
 毎年の卒業祝福礼拝で行っていることがあります。一度始めたらやめることができなくなりました。卒業証書を渡す際に二言いうことです。三年間の学校生活を終える子どもたちに「おめでとう」の一言で済ますのは失礼です。働くことの本質とは自分をきたえ直し、世界をつくり直すことだと、ある哲学者がいいましたが、人は何も生産することがなくても労働しているのです。それを労作の授業を通して実体験しているのですが、学校生活そのものが労働といえます。それなら三年間過ごした子どもたちに「労わり(いたわり)」「労う(ねぎらう)」のは当然です。そこで日頃の関わりや卒業文集からその子どもにふさわしいキーワードを探して一言にし、次に進路先でどのような生き方をしてほしいかを一言にします。「敬和で完全復活。○○大で深い学びを続けて」「学ぶ楽しさに出会いました。○○でも充実した生活を!」。卒業を前にした三年生の一人がいいました。「校長から何をいってもらえるのか、緊張しています」。二年生の一人がいいました。「校長は来年いないんですね。僕への一言、せめて聖書に書いて下さい」。

痛みに共感する
 校長として15年間続けてきたことに共通するのは、誰かに頼まれてしてきたのではないことです。自分で勝手に始めました。勝手に始めたことには自分が責任を持たなければなりません。意地で続けてきたことも確かです。でもそれだけではありません。三つに共通するのは、そこにある痛みです。葦の会に出席される保護者のみなさんから家族の悲しみや痛みが、それこそ痛いほど伝わってきました。毎月の誕生カードにその子の名前を書く時、その子の持つ痛みがまず浮かんできます。思春期を生きる子どもたちは痛々しい存在です。それを抱えながらも通ってきてくれるのです。だからこそ慰めと励ましと押し出し引っ張り上げるような言葉を贈りたいと願ってきました。卒業を迎えた子どもたちは、敬和学園での三年間を通して自分と他者の痛みに共感できる存在になったのです。その彼らに感謝の思いを込めた言葉を贈るのは当然です。他者の痛みに共感できる人になる、共感できる人を育てる、その先に平和が見えてきます。それはイエス・キリストが存在をかけて教えてくださったことです。そこにキリスト教学校の教育の目的と存在の意味があります。
 15年間、アホな文章にお付き合いいただき心から感謝いたします。ありがとうございました。