毎日の礼拝

校長のお話

2018/03/17

「伊能忠敬」(申命記34章4~6節)

伊能忠敬という名前を聞くと、歴史が苦手な人でも、たいてい日本の地図を作った人などの答えが返ってきます。

正確ではありませんが、伊能忠敬が日本の地図つくりに大きな貢献をしたことは間違いありません。

教科書などに載っている伊能忠敬の似顔絵や姿はたいてい痩せた老人です。

ですから伊能忠敬は若い時から苦労して日本全体の地図を作るためにあちこち歩き回って測量していたんだろうと、私も思っていました。

最近ですが、伊能忠敬がどのような人生を送ったのか、そして地図作りにどのような思いを持っていたのかを知る機会がありました。

この人は苦労の人生を過ごしたのではなく、その時その時に実に楽しそうに取り組んでいたことがわかりました。

しかも人生の前半と後半では全く違う、いうなれば人生を2度過ごしています。そして私たちが知っているのは55歳から72歳で亡くなるまでの17年間の伊能忠敬です。

だからイメージとして痩せた老人なわけです。

伊能は今の千葉県に生まれ17歳の時に伊能家に養子として入ります。

伊能家は大地主として米を作り、酒造りもする名士でした。

伊能忠敬は経営の才能があって、莫大な財産を築きます。

しかも小作民を苦しめるんではなく、浅間山の噴火が引き起こした天明の大飢饉の時には、上方今の大阪から大量の米を買い付け、それを農民に無償で分け、残った米を江戸で売って大きな利益を上げます。

商売の才覚を持つと同時に人間的な優しさを備えた人のようであったのです。

 

ところが50歳を前に家業などすべてを息子に譲り隠居生活に入ります。

平均寿命が今よりはるかに短かった当時の50歳というと、かなりの高齢者と考えられます。

今の時代でいうと、定年を迎える頃、年金生活に入る時期といったらいいかもしれません。

私は今65歳ですが、ちょうどこのあたりの年齢でしょうか。

隠居生活というと、しんどい仕事はやめて、好きな趣味を中心に毎日を過ごす、悠々自適の生活をイメージします。

私の高校の同級生の多くが年金生活を始めています。

まして伊能忠敬は財産を築きました。

暮らしには困りません。

ところが50歳になった伊能忠敬は悠々自適の生活ではなく、江戸に出て高橋至時という若い学者の弟子になって、天文暦学を真剣に学び始めたのです。

それは定年退職した人がもう一度大学に入りなおして、好きな勉強をしてみよう、という趣味レベルのものではありませんでした。

そして5年後に全国測量の旅に出たのです。

伊能忠敬には大きな夢があったようです。

それは地球の大きさを肌で感じたい、ということでした。

それを実感するためには自分の足で歩いて測量をするのが一番と考えたようです。当時ロシアが南下をして蝦夷地今の北海道に出没し始めていました。

それに対して師匠の高橋至時は、国を守るためには正確な地図を作る必要があると幕府に測量の話を持ち掛けたのです。

そして伊能忠敬を推薦したのです。

伊能は政府の許可をもらって測量できれば、地球の大きさも計算できると考えたのです。

つまり2人は自分たちがやりたいことをやるために、幕府の事業を利用した、便乗したのです。

大したものです。

 

それにしても、いくら学問ができるとはいえ、50歳から専門的な知識を学ぶことは大変だったと思います。

それができたのが若い時の体験です。

彼の住む地域は利根川の下流にあって、大雨が降ると氾濫し、その度に田畑が荒れ大きな被害が出ました。

川の氾濫によって一番被害を受けるのは農民です。

伊能忠敬は否が応でも農民の苦しみや痛みを長年目の当たりにしてきたのです。それを何とかしたいとの思い、それが老人になってもなお真剣に学ぶエネルギー、モチベーションになったのです。

蝦夷地の測量はいうなれば、幕府の伊能忠敬に対するお試し期間でした。

老人に期待していなかったのです。

ところが伊能忠敬の北海道地図は緻密なものでした。

それに驚いた幕府はやがて全面的に支援を始めます。

その結果10回の17年にわたる測量を行うことになります。

その17年はしんどいことも多かったでしょう。

けれどやりたいことをやりたいようにやる、とのワクワク感に溢れたものだったのだろうと、私には思えて仕方ありません。

伊能忠敬が日本地図を作ったというのが正確ではないとはじめにいいましたが、完成したのは彼がなくなった3年後です。

そこだけ切り取って見ると、苦労して測量したのに地図の完成を見ないでなくなったのはかわいそうとなります。

でもそんなことはなかったはずです。

毎日あれこれ必死になって測量をする、多くの仲間と一緒に測量をする、そのこと自体がおもしろかったのだと思います。

そうした毎日で養われた人間力によって、伊能忠敬は測量と地図作りを死ぬまでやり続けることができたのです。

 

出エジプト記に登場するモーセは人々を約束の地カナンに連れて行くように、神から命じられます。

自分には能力はないと断りましたが、神の命令に従わざるを得ませんでした。

そして40年かかって約束の地を見つけます。

40年というのは相当長い期間です。

しかもその旅は楽ではなく、人々はモーセにしばしば不平文句を浴びせます。

苦労を自分のせいにされてたまらなく腹の立つこともあったはずです。

そういう体験を重ねる中でようやく約束の地に到着することになりました。

しかしその時神はモーセに、お前は約束の地カナンに入ることはできない、お前の役目はここまで、お前は死ぬことになると告げられます。

モーセかわいそうとなるでしょうか。

そうではないと思います。

物事は結果ではなく、その日を迎えるために、ひたすら辛抱する耐えるものではないと思うからです。

モーセが40年間旅を続けることができたのは、一日一日の中で、泣いたり笑ったりの出来事があったからです。

悩んで悩んでどうしようもないと思えたことが、あることをきっかけに解決した時の解放感、これはたまりません。

生きててよかったなと思える瞬間というのがあるのです。

そうしたことを通してモーセは人間力を持つ人になっていったのです。

 

物事を結果だけで見ない敬和学園の一日一日の学校生活にはそれらがふんだんに用意されているということです。

生きる力を持つ人になってもらうためのプログラムが敬和学園には用意されているのです。

その教育をしっかり受けとめる、その気持ちを持って、4月からの1年間2年間にしていって下さい。

今日が敬和学園でさせてもらう最後の礼拝の話になりました。

みなさんと一緒に礼拝を持てたことを感謝します。

ありがとうございました。