毎日の礼拝

校長のお話

2018/01/22

「役に立たないと思えることにこそ価値がある」(ルカによる福音書13章6~9節)

 敬和学園が3年間の学校生活を通して、みなさんにぜひ体験してほしい、学んでほしいと願っていることがあります。それは押し付けられた価値観ではなく、自分がそうだと確信できる価値観を持つことです。それが何にも勝る生きる力になるからです。
 明日は1月の入学試験があります。今年も大勢の人が受験をしてくれます。私立学校にとって何よりうれしいことです。敬和学園の入学試験の特徴は、在校生の入試労作によって成り立っていることです。今回もたくさんの人が参加を申し出てくれました。それぞれの人がそれぞれのポジション、分野で役割を果たしてくれることになります。見える形では、大きな見返りがあるとは思えない入試労作、ある意味神経をすり減らしてクタクタになる入試労作、そこになぜ多くの人がやってもよいとと申し出てくれるのでしょうか。
 それは目には見えないけれど、そこに大きな価値があることを知っているからです。ここにいるみなさん全員が3年前2年前1年前の入学試験を体験しています。入学試験は受ける方も実施する方も緊張します。ですから学力に自信があっても実力通りに発揮できないこともあります。体調を崩して受けることさえできなかった人がいます。
 入学試験に絶対ということはありません。だから誰もが不安になります。その時、受験生の自分に付き添ってくれる先輩がいたのです。自分を案内してくれた先輩はずいぶん大人に見えたでしょう。イキイキと輝いて見えたはずです。ところが面接会場に向かう途中で、いや私も中学校生活はうまくいきませんでした、と話してくれる先輩が、中には自分は不登校でしたと明かしてくれる先輩がいました。その一言によって緊張が一気にほぐれて学力試験や面接の臨むことができたという体験を持っている人もいるはずです。そのような体験を通して自分もぜひ入試労作をやりたいと考える人がいるのです。
 自分の時間とエネルギーを自分以外の人のために使う、これを表面的な損得で考えたら、間違いなく損です。でも損に見えることをすることによって、自分が大きく成長できる、イキイキできることがあるのです。そういう価値観があることを知っているのか知らないのか、それによって人生は大きく変わります。

 

 敬和生活をしているみなさん、そして明日入学試験を受ける中学生が、キリスト教の学校である敬和学園を受験するきっかけは何だったでしょうか。家族や知り合いに卒業生や在校生がいた。中学校の先生から、今のあなたを受け入れてくれるのは敬和学園しかないとネガティブな言葉をいわれた。逆に君の個性が生かせる学校は敬和学園とポジティブな言葉をかけられた。親との折り合いが悪くて家から離れたくて、インターネットで寮のある学校を探していたら、出てきたのが敬和学園だった。
 でもほとんどの人が、敬和学園がキリスト教の学校だから決めたわけではなかったはずです。たとえキリスト教の学校に進学したかったという場合でも、日本にはたくさんのキリスト教の高校がありますから、必ずしもそれが敬和学園とは限らないのです。そのように考えると、みなさんがキリスト教の敬和学園に入学してきたのは、偶然にとしかいえません。
 偶然というと何か軽い感じがするかもしれません。そうではありません。キリスト教は偶然に大切な意味を持たせています。人間には偶然に見えても、そこに神のみ心が働いた。愛が働いたと考えます。言い換えると、神が選ばれたとなります。神がみなさん一人ひとりを選んで敬和学園に導いて下さったということです。そこで自覚したいのは、たくさんの人の中から選ばれた自分には、選ばれた者として、果たすべき責任があるということです。その果たすべき責任が、しっかりとした価値観を持った存在になるということです。

 

 その価値観とは何か、今日の聖書の「実のならないいちじくの木のたとえ」からわかります。ぶどう園の主人は3年前に植えたいちじくの木が少しも実をつけないので、園丁に切り倒すように命じます。その命令に園丁は、この木をもう一年育てさせほしいと頼みました。この時代ぶどう園にいちじくの木を植えることはよくあったそうです。お金になるぶどうの木は大切に育てられましたが、安い値段にしかならないいちじくの木はほったらかしにされることが多かったようです。
 値打ちのあるものは大切にされるが、そうでないものは見向きもされない、これは当時の社会が当たり前に持っていた価値観でした。今役に立たないものがこれから先役に立つはずがない。ダメなものはダメ。ムダなものはムダということです。2000年たった今もこの価値観、考えはそれほど変わっていません。多くの場合、人間の目から見て、ダメに見えるもの、ムダに見えるものは、切り捨てられます。たとえそれが人の場合でもおかまいなしに切り捨ててしまいます。

 

 この価値観に対してイエスは、ムダな木は切り倒せという主人に対して、園丁を登場させて、私にもう一年世話をさせてください、といわせます。イエスは神の目から見れば、どの人も大切に受けとめ育てられれば、実をつけることになる、光り輝く存在なると語っているのです。
 キリスト教の学校である敬和学園は、このイエスの言葉に従って、役に立たないものは切り捨てられて当然という価値観ではなく、一人ひとりは大切に育てられることによって、必ず輝くことになると考える学校です。その敬和学園になぜか入学をしてきた一人ひとりには、イエスのこの価値観をしっかり身に着ける責任があります。つまり自分の人生をつまらないものにするのではなく、イキイキとした人生にする責任があります。それが責任なら果たしがいがあります。