月刊敬和新聞

2017年9月号より「葛飾北斎富嶽三六景と賛美歌155番の間にあるもの」

校長 小西二巳夫

引越し13回、30回、93回
 先日知り合いから転居を知らせるハガキが届きました。しばらく前にも同じようなハガキが届きましたから、1年内に2回したことになります。何か事情があるのではなく引っ越しが好きなようです。そういう私も親の都合や進学によって、さらに仕事の都合など記憶しているだけで13回の引越しをしています。年齢を引っ越しの回数で割ると5年に1回したことになります。これは親譲りです。私の母は90歳で亡くなるまで家庭の事情や戦争によって、その後の結婚と離婚など様々なケースを合わせると30回以上しています。平均すると3年に1回です。ところがこれをはるかに上回るのが同じ90歳で亡くなった江戸時代の画家葛飾北斎です。北斎は生涯に93回の引っ越しています。1年に1回です。引越しを何度もした体験からわかることがあります。それは引越しも元気だからこそできる、ということです。新しい家を探す。荷物を片付ける。後始末をする…などあれこれあります。今は引越しも楽になりましたが、それでも相応のエネルギーが必要です。このことからも葛飾北斎が90歳で死ぬまで創作意欲満々の生活をしていたことがわかります。

富嶽三六景
 北斎の有名な作品に富嶽三六景があります。これは斬新でエネルギーにあふれた作品ですが、北斎はそれを70歳からの数年間をかけて描いています。しかもタイトルから36枚かと思いがちですが、実際は46枚あります。描きたいのがたくさんあって36枚に収めきれなかったのだと思います。富嶽というのは富士山の別名です。富嶽三六景には働いている人、生活を営んでいる人、そして旅をしている人が多く描かれています。江戸浅草の大きなお寺の屋根の上で働く瓦職人の向こうに、雪をかぶった富士山が見えます。風速20メートル以上の大風に飛ばされないように体を斜めにして歩く旅人を見下ろすように、富士山が描かれています。仕事をしていてふっと目を上げたら、そこに富士山が見えました。苦しいことや辛いことがあって、どうしようもない気持ちになった時に、そこに何事があろうと変わらぬ姿の富士山が見えたのです。富士山はいつも変わらぬ目線で人々を、その生活の営みを見つめていたのです。

賛美歌一五五番(山べにむかいて われ…)
 それは賛美歌155番に通じます。「山べにむかいてわれ目をあぐ 助けはいずかたより きたるか あめつちのみかみより たすけぞわれにきたる」。絶望的な気持ちになった人々はシオンの山を思い出しては日々神様に祈ったのです。祈ることを通して、毎日の生活に精いっぱい取り組んでいくこと、その私を神様は決して見捨てられない、必要な助けは必ず何かの形で励ましが与えられることを確信したのです。葛飾北斎は富嶽三六景を描くことによって、毎日を一生懸命生きる人たちを励まそうとしたのだと思います。当時の人々の間で交わされた会話を想像することができます。俺は鋸を引く「遠江山中」が好きだ。いや漁師が黙って網を打つ「甲州石班沢」の方が趣きがある、といった会話がされたことでしょう。人々はそうした会話を通して小さな希望を見出したのではないでしょうか。

その時私があなたを背負っていた
 富嶽三六景46枚の中で富士山が描かれていない絵が一枚だけあります。それは富士山に登っている時の絵です。険しい山道を登っていくその最中に富士山の姿が見えないのは当然です。それは山懐に抱かれている時でもあるのです。この絵に通じる「足跡」という詩があります。ある人が自分の人生をたどってみると、自分の足跡の傍らにはかならずイエス・キリストの足跡もあった。しかし自分が苦しくて辛くて一歩も歩けない時、そこには一人分の足跡しかなかった。肝心な時になぜあなたは私のそばにいてくださらなかったのかと問うたのです。イエス・キリストは答えました。「友よ、その時一人分の足跡しかなかったのは、私があなたを背負っていたからだ」。後期が始まるこの時期、やる気と希望に満ちた人がいます。学校が早く始まってほしいと指折り数えていた人もいます。でも、しんどさと不安の中にどっぷりつかっている人がいます。進路を考えたら八方ふさがり、先が見えない人がいて当然です。そういう人に、賛美歌155番は救いがどこにあるかを示してくれます。「足跡」は自らの足で歩けなくなった人をイエス・キリストは背負って歩いてくれることを教えてくれます。一人ひとりを選んで敬和生にしてくださった神様が、放っておかれるはずはないのです。このイエス・キリストの救いの目線を忘れず、一日一日にじっくり取り組んでいきたいものです。