自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2017/09/11
先日知り合いから転居を知らせるハガキが届きました。
その人からは確かしばらく前にも同じようなハガキが届きました。
ということは1年以内に2度の引っ越しをしたことになります。
何か事情があるというよりは、もともと引っ越しが好きなんだと思います。
そういう私も何度も引っ越しをした体験があります。
親の都合や進学によって、さらに仕事の都合で引っ越しをしてきました。
記憶しているだけで13回です。
同じ場所に一番長く住んだのが16年です。
それは今です。
ここ敬和学園の敷地内に住んで16年です。
私にすればこれは驚異的な長さになります。
年齢を引っ越しの回数で割ると、ちょうど5年に1回したことになるわけです。
私も引越し好きなのかもしれません。
それは親譲りということがいえます。
私の母は90歳で亡くなりましたが、親の都合、神戸大空襲で家を失った、疎開をした、結婚した、離婚した、自分で仕事を始めた、など様々ケースを全部合わせると、私が知るだけでも引っ越しの回数は30回を下回りません。
平均すると3年に1回です。
なかなかのものです。
これを大きく上回るのが同じ90歳で亡くなった江戸時代の画家葛飾北斎です。
葛飾北斎は死ぬまでに93回の引っ越したといわれています。
1日に3回したこともあるそうです。
平均すると1年に1回となります。
まるで引っ越しが趣味みたいに思えます。
何度も引っ越しをした体験からわかることがあります。
引越しができるのは元気だからです。
新しい家を探す。
引っ越し荷物を片付ける。
出て行く家の後始末をする。
役所関係へ出す書類はあれこれあります。
知り合いの転居のハガキを出す、など面倒なことがたくさんあります。
今は某引越センターの楽々パックというような名称のサービスがあって、相当楽ですが、それでもそれ相応のエネルギーが必要です。
このことからも葛飾北斎が死ぬまで意欲にあふれた人であったことがわかります。
死ぬ直前まで創作意欲満々の生活をしていたそうです。
北斎の有名な作品に富嶽36景があります。
真っ赤な富士山を描いた通称赤富士とよばれるもの、西洋の芸術家たちに衝撃を与えたという、ビッグウェーブのタイトルで親しまれている、大きな波が今にも舟を飲み込みそうな「神奈川沖浦波」などがある作品集です。
富嶽36景は斬新でエネルギーにあふれた作品ですが、北斎はそれを70歳からの数年間をかけて描いています。
たいていの人なら引退している、静かに余生を送っている、その時に新しい画法にチャレンジしているのです。
しかも富嶽36景とのタイトルから36枚かと思いがちですが、実際は46枚あります。
描きたいのがたくさんあって36枚に収めきれなかったのだと思います。
富嶽は富士山の別名です。
富嶽36景には働いている人、旅をしている人が多く描かれています。
浅草の大きなお寺の屋根を上で働く瓦職人の向こうに雪をかぶった富士山が見えます。
材木問屋の大きな材木が立ててある間から富士山がのぞいています。
私の好きなのが、人の背丈の2倍以上ある大きな桶を立てて作っている、その向こうに富士山が見えます。
風速20メートル以上の大風に飛ばされないように体を斜めにして歩く旅人を見下ろすように富士山が描かれています。
これらの絵からわかるのは、当時は江戸東京含む多くの地域場所から富士山が見えたということです。
仕事をしていてふっと目を上げたら、そこに富士山が見えた。
苦しいことや辛いことがあって、どうしようもない気持ちになった時に、気づいたらそこに何事があろうと変わらぬ姿の富士山が見えたのだろうと思います。
見方を変えていうなら、富士山はいつも変わらぬ目線で人々を、その生活の営みを見つめていたとなります。
富士山が信仰の対象となった、拝む対象となったのも当然です。
それは先ほど歌った賛美歌「やまべに向かいて」が表現していることに通じます。
当時の人々は、その山を通して、日々神様に祈ったのです。
神様に祈ることを通して、毎日の生活に精いっぱい取り組んでいくこと、その私を神様は決して見捨てられない、必要な助けは必ず何かの形で励ましが与えられることを確信したのです。
葛飾北斎は富嶽36景を描くことによって、毎日を一生懸命生きる人たちを励まそうとしたのだと思います。
当時の人々の間で交わされた会話を想像することができます。
俺は富士山より高く、鋸を引く「遠江山中」が好きだ。
いや漁師が黙って網を打つ「甲州石班沢」の方が趣きがある、といった会話がされたことでしょう。
人々はそうした会話によって生活の中に小さな希望を見出したのではないでしょうか。富嶽36景46枚の中で富士山が描かれていない絵が一枚だけあります。
それを問題に何人かに質問しました。
次のような答えが返ってきました。
曇っていて見えなかった。暗くて見えなかった。
描くのが面倒くさかったのではないか。
極めつけは、北斎は70歳を超えていたから、年齢からくる物忘れで描くのを忘れたのでないか、でした。
富士山が描かれていないのは「諸人登山」というタイトルの絵です。
それは富士山そのものを登っている時の絵です。
険しい山道を登っていくその最中に富士山のシルエット姿が見えないのは当然です。心のよりどころの富士山が見えない時、それは山懐に抱かれている時でもあるのです。
この絵に通じる詩があります。
「フットプリント・足跡」という詩です。
次のような意味の詩です。
ある人が自分の人生をたどってみると、自分の足跡の傍らにはかならずイエス・キリストの足跡もあった。
しかし自分が苦しくて辛くて一歩も歩けない時、そこには一人分の足跡しかなかった。肝心な時になぜあなたは私のそばにいてくださらなかったのかと問う人に、イエス・キリストは答えた。
「友よ、その時一人分の足跡しかなかったのは、私があなたを背負っていたからだ」。
敬和学園の2017年後期が始まりました。
ワクワクしている人いると思います。
やる気と希望に満ちた人いるでしょう。
早く夏休みが終わってほしい、学校が早く始まってほしいと指折り数えていた人もいるはずです。
でも、そうでない人も多くいると思います。
しんどさと不安の中にどっぷりつかっている人いるかもしれません。
進路を考えたら八方ふさがり、先が見えない人がいて当然です。
この先やっていけるのだろうか、不安な思いに駆られている人もいるでしょう。
そういう人に、キリストの神は今日の賛美歌のように、いつもあなたを見守っているよと呼びかけています。
そして歩けなくなった人をイエス・キリストは背負って歩いてくれるというわけです。するとマイナスの気持ちになって自分を追い込む必要はないわけです。
ここにいる1人1人をわざわざ選んで敬和生にしてくださった神様が、放っておかれるはずはないのです。
それを信じるところから敬和生活が始まります。
それでは自分の1日1日にせかず慌てずじっくり取り組んでいきましょう。