月刊敬和新聞

2017年6月号より「ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』 ― 大きくない絵の中に1,400人が描かれたわけを考えました―」

校長 小西二巳夫

ピーテル・ブリューゲル バベルの塔
 東京上野の美術館で今話題の展覧会が開かれています。ピーテル・ブリューゲルという一六世紀オランダの画家の展覧会です。先日東京に行った時に、見ようと思いましたが、三時間待ちということだったのであきらめました。この展覧会の人気の理由は「バベルの塔」という作品のおかげでしょう。「バベルの塔」は旧約聖書創世記一一章の話をモチーフに描かれています。「…大洪水を生き延びたノアの子孫のニムロデが自分の権力を誇ろうと、当時の最新技術を駆使して、天にまで届くような高い建物を建て始めます。それを見た神は怒り、建設を止めさせようと、お互いの言葉が通じないようにしたというのです。そのために人々はコミュニケーションが取れなくなり、結果、高い建物の建設は中止になった…」というお話です。権力と財力を使って始めた事業がうまくいかなかったのですから失敗話です。事業の失敗によってチリヂリバラバラにされたのですから一家離散の話です。それも自分の権力を誇示しようとしたためですから同情されない話です。こうしたことからバベルの塔の話は、人間の愚かさを戒める話として考えられています。確かに明るくもなければ楽しい話でもありません。

人間の愚かさを描いているのか
 ブリューゲルの絵もどう見ても暗い感じです。人間の愚かさを描いているように見えます。ある人がブリューゲルのバベルの塔と2011年3月の東日本大震災直後の事故と重ね合わせました。震災によって東京電力福島第一原子力発電所の冷却装置が壊れました。翌日から一号機、二号機と原子炉の温度が制御できなくなり、次々に爆発しました。原発を覆っている搭屋の上の部分が飛ばされました。上の部分が空洞になった原子炉と、建設が途中で中止になるバベルの塔が重なって見えるというわけです。鋭い感性だと思いました。何が重なって見えるかです。それは建物の形だけのことではありません。人間の知恵や技術、進歩は浅はかだということ、そして人間の傲慢さがもたらすのは繁栄や希望ではなく、滅亡であり絶望であるという内面的なことも含めてです。ブリューゲルのバベルの塔は、暗い雰囲気から考えて、やっぱり人間の愚かさや絶望を描いているように見えます。

高さ510m 1,400人
 でも細かい部分をじっくり見ると違うものが見えてくるのです。そもそもこの絵の大きさです。実物は横75センチ、縦60センチと大きなものではありません。描かれたバベルの塔の高さですが、建設途中の時点で10階建てです。計算すると510mの高さになるとのことです。完成すれば1,500mになります。何を基準に高さを算出したかです。小さくてほとんど見えませんが描かれている人の背の高さです。平均身長を170㎝とすると塔の高さが510mになるのです。絵の中にたくさんの人が描かれています。その数1,400人です。大きくない絵の中に大勢の人を描いたのはなぜでしょうか。おもしろいのは豆粒ほどに描かれた1,400人がそれぞれ違う姿と動作をしていることです。それぞれに表情があります。みんなが一生懸命働いているわけではありません。中にはサボったり、寝ころがっている人がいます。おしゃべりに夢中になっている人がいます。そっぽを向いている人や、お尻を出して用を足している人もいるのです。ブリューゲルはたくさんの違いを持った人を描くことによって、何を伝えたかったのでしょうか。

神の視点がもたらす希望
 そこで気になるのがこの絵を描いた目線です。下からでもなく横からでもありません。建物の六階から七階あたりに雲がかかっていますが、そのあたりを少し見下ろしているのでかなり高いことがわかります。しかも相当遠く離れています。それを神の目線と表現することができます。神という存在から見た建物と人を描いているのです。ブリューゲルは違いを持つ人たちのそれぞれの瞬間を描くことによって、神が一人ひとりの存在に目を注がれていると、伝えたかったのだと思います。一人ひとりの小さな存在が大切にされるというのは、絶望的な状況にあっても、なお希望を持つことができる、その中で生きることができるということです。私たちもこの絵の中のどれか一人です。神が自分に目を注がれている、それを一人ひとりに気づいてもらいたいとの願いが敬和学園の教育の根底にあります。