月刊敬和新聞

2017年5月号より「敬和学園は面倒見がいいとはいえない学校です。」

校長 小西二巳夫

面倒見がいいとはいえない
 右の見出しを見てドキッとされる方、少なからずいらっしゃると思います。逆じゃないの、敬和学園は面倒見のいい学校と受け止めて下さっている方がおられるかも知れません。確かに以前はそうした評価に、いえいえそんなことはありません、まだまだです、と答えつつもまんざらでもない気持ちになることもありました。「面倒見がいい」はほめ言葉として使われることが一般的ですから、そういわれてうれしくないはずはないのです。でもそうは思いつつも、どこかに何かしらのわだかまりがあったのです。一つには「そうであることよりそうでない」と思えることが現実的にあったからです。結果的に子どもを受けとめそこねたこと、ないとはいえません。そこに悔いが残っています。しかし学校創立50年を迎える今、敬和学園は面倒見がいいとはいえない学校です、さらに踏み込んで、面倒見がよくなくていいと考える学校です、と言い切ってよいと思えるようになりました。敬和学園は面倒見のいい学校でもなく、それを目指してもいけないのです。

面倒=煩わしい=厄介
 そもそも面倒見がいいとはどのようなことを指すのでしょうか。面倒とそれに関わる言葉について調べてみました。辞書には厄介や煩わしいなどと同じ意味の言葉とあります。面倒・煩わしい・厄介は手間がかかったり神経を使ったりして、気が重くなる様子を表す。客観的な面が強い場合には、いずれの語も使える。主観的でできればしたくないという場合には面倒が多く使われる、となっています。面倒を英語で表現すると端的です。「彼は面倒な生徒だ」は「he is troublesome student」となります。こうしたことから考えて、面倒見がいいという場合、厄介な子どもや、トラブルを起こす子ども、煩わしい子ども、つまりできれば関わりたくない子どものお世話をするということになります。このことから敬和学園が面倒見のよい学校であってはならないのです。
 別の意味で面倒見がいいということを前面に押し出している学校があります。この場合は、ほとんどすべてが勉強に関することです。あれこれサポートすることによってただただ成績を上げることや難関大学の合格に全力を尽くす、ということです。これもまた敬和学園の教育とは違います。

面倒の語源は愛でる
 面倒見がいい、ということを調べる中ではっきりしてくるのは、それは上から目線で人を見ていることです。その場合の子どもは面倒を見るとの対象ですから、人ではなくものを見ているのと同じです。こうしたことから面倒見がいいといわれることに、わだかまりを感じる原因があったことがはっきりしてきました。ただ面倒という言葉を調べる中で新たな発見がありました。それは面倒の語源が「めでる」(愛でる)という動詞に関係していて、本来は「ほめる」「感心する」という意味の言葉であったということです。感謝や感動の気持ちを表す言葉が時を経て逆の意味を持つようになったのには複雑な事情があったのでしょう。

存在を大切にすると面倒を見るは違います
 「敬和学園は面倒見のいい学校ですね」に「いえ、面倒見は悪いです。面倒見のいいと存在を大切にするは違います。敬和学園はあくまで存在を大切にしたいと考えている学校です」と答えるようにしてきました。面倒の語源からして、この答え方が間違っていないことがわかりました。大切にする、を聖書の慣用句で表現すれば愛するです。まさに愛でるです。キリスト教は愛するという言葉で一人ひとりの存在を大切にすると表現してきたのです。敬和学園の卒業生で今教師をしている一人が言いました。「敬和学園に入学して初めて学校でほめてもらった。それも小さなことでほめてもらった。本当にうれしかった。そこから自分の学校生活が始まった」。そこにいる一人の生徒は神様によって選ばれ入学してきたのです。神様が選んだ存在をキリスト教の学校である敬和学園が面倒見てやるなどとはいえるはずがないのです。面倒の語源によって、ただただ感謝して受けとめることから始まるのです。いつの間にかそれが逆になってしまっていたなどという言い訳をすることはゆるされません。それを敬和学園で一番面倒を見てもらっていると自負している私がいうのですから間違いありません。