毎日の礼拝

校長のお話

2017/04/04

「ほとんど勘です」(マタイによる福音書4章18~22節) 2017.4.4(始業礼拝)

新しい年度が始まりました。

48回生にとって敬和生活は残り10か月となりました。

49回生、この間入学したと思ったら、もう1年が過ぎました。

あらためて時間の経つのが早いと感じます。

放っておくとあっという間に流されてしまいます。

時間に流されないためには、どのように過ごすか、あらためて考えることです。

その時に自分を支えてくれるのがキーワードです。

それについて私自身がなるほどと思わされたことがあります。

それは入学試験の個人面接の場面でのことでした。

個人面接を行う際には、「校長の小西です」と自己紹介をしてから、面接に入ります。

まず尋ねるのは、あなたはなぜ敬和学園を志望しましたか、当たり前のことです。

これはどの中学生も面接練習などで用意してきた答えだからです。

これを尋ねてあげないと、中学生は落ち着きません。

そこでよくあるのが、貴校の建学の精神「敬神愛人」のもと一人一人を大切にする教育を行っていることに感銘したからです、といったようなパンフレットの言葉のような答えです。

これを聴くと、一生懸命覚えてきたんだなとほほえましくなります。

それが一段落して緊張が少し緩んだところで、具体的なことを尋ねます。

ところがその受験生は違っていました。その時のことです。

あなたはなぜ敬和学園を志望したのですかという質問に、一瞬だまり次の瞬間言ったのです。

「ほとんど勘です」。

 

敬和学園を進学先に選んだ理由が、勘だというわけです。

本人はふざけているのでもなく、ふてくされているようでもありません。

至ってまじめです。

正直な思いを言葉にしたのだと思います。

ただ隣りで息子の答えを聞いていたお母さん、声には出しませんでしたが、うっと息をのんだのです。

そして顔は動かさずに、斜め目線で隣りの息子を見たのです。

口元は何てバカなことを言うのと言いたげなものになり、表情は見る見るうちに絶望的になっていきました。

それはそうでしょう。

敬和学園を志望したのは勘です、は聞きようによると、何も考えていない、どの高校でもいいと、受け止められてもしかたないからです。

実際その人は中学校の生活が順調だったのではありません。

本人も周囲の人もかなり苦しんだことが願書や添付された資料からわかるのです。

ようやくのことで敬和学園受験までこぎつけたのです。

彼の答はそれをすべてご破算にするような余計な、言わなくてもよい一言だとも言えるのです。

だからお母さんは絶望的な表情になったのです。

でも私は言いました。

「勘か、わかるなあ、ええ答えや。勘で選んでくれたのうれしいなあ。もし君が入学したら、勘違いでした。勘が外れましたと言われないような学校にしていかなあかんなあ」。

 

私がその受験生の言葉に共感したのは、私自身もほとんど勘で敬和学園を選んだからです。

私の場合、それは入学ではなく転職でした。

今から16年程前、私は北海道で働いていました。

自分の仕事楽しんでいました。

その仕事をさらに4年間続けるということが決まっていました。

その私に「新潟の敬和学園という高校で働きませんか」との誘いがあったのです。

自分が高校で働く、そもそもこのフレーズは私の頭にはありませんでした。

私は小さい時から学校が苦手でした。

特に先生という存在が苦手でした。

どういうわけか先生の前ではうまくしゃべることができませんでした。

学校でほめられた記憶もほとんどありません。

学校が持つ独特の空気も苦手でした。

でも高校は高校でも、敬和学園という名前と響きに行ってもいいかなと思ったのです。なぜかわかりません。

自信もありません。

でも敬和ならいいかと思ったのです。

まさに勘です。

勘以外の何物でもなかったのです。

 

今日の聖書はイエス・キリストがペトロたちを弟子にする場面です。

ペトロたちはイエスとは初対面です。

初対面の人があいさつもそこそこに、漁師をやめて俺についてこい、仕事を手伝えといったのです。

こうしたシチュエーションの場合、ふつうは反発するはずです。

あなた誰ですか。突然現れて、漁師の仕事を辞めて家も家族もほったらかしにして一緒について来い、いったい何の権利があってそんなことを言うのですか。

ところがペトロたちは、イエスの一言に素直について行ったというのです。

確かに誘い文句は気が利いています。

ガリラヤ湖で長年魚を捕る漁師をしていた男に、人間をとる漁師にしてやろう、というわけです。

魚をすくい取ってきた人に、人を救いとる仕事をさせてあげますというのです。

男気をくすぐられて、ぐっと来たのかもしれません。

この場面のペトロたちの決断、あれこれ理屈はつくかもしれませんが、そこにあったのは、あくまで勘であったと思うのです。

これから先、今の生活よりひどいものになる可能性も大いにあります。

それにも拘らず、ペトロたちは自分の人生をイエスに託したのです。

なぜそれができたのかです。

そこで考えたいのは人間の勘とは何かということです。

勘というと、何も考えずにパッとわかることのように思います。

でも前後左右の関係なしに、突然ひらめくようなことはまずありません。

意識するかどうかは別にして、それまでにいっぱい考えることがあって、悩むことがあって、失敗することがあって、それが勘が働く準備となっているのです。

それらが積み重ねとなって、ぱっと一つの答えにつながることがあるわけです。

それが勘の本質です。

それまでの様々な体験が一瞬にして人生を決断させる力なることがあるのです。

人生には意外と勘が大事ですといった人がいます。

本当にそうだと思います。

そこで気づきたいのは、人生を拓いていくために大事な勘を持つためには、そこに至るまでにいろいろ取り組むことが必要なのだということです。

いっぱい考えて、悩んで、もめて、失敗して、悔やんで、謝って、喜ぶような日常の体験を重ねることです。

そのために毎日に敬和生活があるのです。

それをやり続けることができたら2017年度は間違いなく最高の年になります。