月刊敬和新聞

2017年3月号より「こんな勉強何の役に立ちますか」

校長 小西二巳夫

役に立たなければ意味がない?
 親と子や先生と生徒の間で昔から繰り返されてきたやりとりがあります。「こんな勉強、何の役に立つのか」の類です。私も尋ねられたことがあります。しかしその生徒は私に真剣に尋ねたのではありません。「今はわからなくても、将来役に立つからやりなさい。一生懸命努力することが将来につながる。自分を成長させてくれる…」と私が答えるのを前提で質問したのです。そもそも親や先生がすぐに役にも立ちそうにない勉強をすることが、その子の将来のためになると信じているでしょうか。確信がないわけですから当事者である子ども・生徒が勉強をさせられるための方便と受けとめるのは当然でしょう。ただ立場が相反する大人と子どもですが、「役に立たなければ意味がない。ムダはダメなこと」との考えは共通しているようです。

人工知能AIの台頭
 しばらく前にある大学の研究機関が調査結果を発表しました。10年後には47%の職種や仕事が人工知能AIによるコンピュータの自動化などによって失われるというのです。人工知能はすでに人間の脳の領域を超えています。これによって子どものあこがれの職業である電車の運転士も自動運転装置に取って代わられることになります。弁護士や裁判官になるための司法試験は難しいので有名です。こうした高度な専門職の試験が難しいのは人間の頭脳では大量の知識やデータを覚えられず、適切に抜き出せないからです。それは人工知能が一番得意とすることです。人工知能が裁判官になるというのはSF小説の世界の話ではなくなるのです。職業として残るのは面倒なコミュニケーション能力が必要な接客サービス業や営業などとのことです。意外なのが工場などの現場で働く仕事、介護やウェイトレスなどの賃金が低いとされている仕事です。理由は人工知能の開発には莫大な資金が必要で、それより低い賃金で人手を使ったほうが安上がりだからです。

人間はムダな存在
 こうした時代の流れはますます早くなっていきます。そこでこれまで以上に真剣に考えなければならないのは、何を希望にいきいき生きていくのかです。「こんな勉強、何の役に立つのか」と質問をされた時、私は答えました。「その通りや。何の役にもたたへん。必死で覚えても、たいていのことはムダになる。今役に立たんもんがこれから先、役に立つとは思われへん。でもなあそのムダが大事やと思う、ムダは大切や…」。役に立つことがすべてに勝る価値観とは限らないのです。それを最優先する限り一番ムダになってしまうのが人間なのです。私は今高齢者と呼ばれる人の仲間入りをしつつあります。10年前、5年前より確実に体力がなくなっています。物事をよく忘れます。今後ますますそうなっていくのは確かです。役に立つことを最優先する価値観で自分を見ると、いかにムダな存在になりつつあるかを思い知らされます。人工頭脳が人間の頭脳を超えているわけですから、私だけでなく誰もがみな役立たない存在になってしまうのです。

教養は生きる力
 人工頭脳が人間の能力を超えているにもかかわらずできないことがあるのです。それはムダです。人工頭脳の本質がいかにムダを省くのか、いかに効率的に合理的にするのかにあるからです。ムダをすれば存在の意味があやふやになります。ムダをすることにおいて人工頭脳は人間を超えることはできないのです。すぐに役に立たないと思われる勉強の蓄積を一般的に教養と呼んでいます。教養は偏見や差別から自由にしてくれます。その人に生きるワクワク感を与えてくれます。そこに「こんな勉強何の役に立つのか」という勉強を重ねることの目的があります。敬和学園は人間教育を通して教養を持った人に育ってほしいと考えてきました。聖書には目に見えるものではなく、見えないものを大切にすることで真理が見えてくるとあります。お互いの人間関係をよくする、地域と地域の関係や国と国の関係をよくする、すべての関係を平和にする、そのために必要なものはムダと思われる物である存在です。人工知能には平和な社会を作りだすことはできないのです。自分にとってムダと思えたことに真剣に取り組むことが、イエス・キリストの求める平和を作り出す人につながっていきます。そこに敬和学園の教育のおもしろさ楽しさが見えてきます。