毎日の礼拝

校長のお話

2017/03/21

「体験を経験にするために」(マタイによる福音書22章34~40節) 2017.3.17(終業礼拝)

敬和学園でのみなさんの2年、1年が終わります。

ボヤッとした終わり方では4月からの学校生活もしっかり始められません。

そこであらためて敬和学園で学ぶ、生活をするということが、どのようなことなのかを考えてみたいと思います。

敬和学園が3年間の学校生活を通してみなさんに願っていることは何でしょうか。

難しいことではありません。

シンプルです。

でも大事なことです。

一言でいうと「幸せな人生を送る人になってもらいたい」のです。

「幸せな時間を過ごせる人になる」ことです。

そのための知恵と力を3年間の学校生活で持てる人になってほしいのです。

レベルの高い大学に入るのもいいでしょう。

そのためによい成績が取れるように必死になる、いいと思います。

スポーツやその他の部活でたくさん勝つ、たくさんの賞をもらう、よい記録を出す、いいことだと思います。

でもそれはあくまで途中経過です。

人生の一時のことです。

残念ながらレベルの高い大学に入ることイコール幸せな人生が過ごせるとは限らないのです。

スポーツでいい記録を出すことイコール幸せな時間を過ごせる人になる、と必ずしもならないのです。

それだけが高校生活の目的・目標としたら、それは余りにもちっちゃい、薄っぺらいと思います。

記録や結果はすぐに過去のことになります。

 

人にとって過去や出来事は大事ですが、過去に生きることはできません。

人は否が応でも現実の中を未来に向かって生きることしかできないのです。

そこでもし現実と未来を幸せな状態で生きることができたら、人生これ最高です。

幸せな時間を過ごしていると思えたら、それこそ人生そのものが楽しくなります。

この人間にとって大きな課題である、人生を楽しく生きる、それをどうしたら実現できるのかを考えたのがイエス・キリストです。

イエスはある時質問をされました。

「人生にとって何を守ることが一番大切か、つまり人間にとっての一番の幸せは何か」。この質問にイエスはこう答えたのです。

「あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」。

敬和学園はこのイエスの言葉を建学の精神にしています。

建学の精神というのは学校の憲法です。

学校生活のすべての中心にあるものです。

ですから敬和学園の教育が、幸せな人生を過ごすためのもであること、どうしたらいいのかを考えるのはごく自然です。

幸せな人生をすごすためには自分を愛するように、隣人を愛する、ということです。その前提としてまず自分で自分を愛しなさい、好きになりなさい、というのです。

言い換えたら、自分を大切にできない、好きになれないような人に、周りの人を大切に、好きになれるはずがないというわけです。

何でもないことのようですが、これが案外難しいのです。

 

日本の子どもは自分を嫌いな割合が他の国に比べて高いということです。

アメリカ、中国、韓国の小学生、中学生、高校生に比べて高く、しかも学年が上がるにつれてますます嫌いになっていくとの結果が出ています。

自分が好きか嫌いかを少し難しくいうと自己肯定感といいます。

敬和学園の生徒はそれが低くはないといわれていますが、それでも自分が好きですと、どのくらいの割合の人が自信を持っていえるでしょうか。

好きになれないのはそれだけのわけがあるからです。

嫌な性格をしている。

見た目が納得できない。

顔・スタイル自分の理想とはかけ離れている。

勉強ができない、成績が上がらない、そのことでいつも叱られてきた。

コミュニケーションをとるのが苦手、などでしょうか。

そういう自分が許せない、受け入れられないということです。

そう考えたらお先真っ暗になるのですが、実はどうしたら自分を好きになれるのか、自分を愛せるようになれるのか、つまり幸せな人生を過ごすためにはどうしたらいいのかのキーワードは、今たどった文脈の中にあるのです。

それは許す、受け入れる、です。

敬和学園という学校、敬和学園で働く先生、そして学ぶ生徒を表現する時に、よく使われるのが、個性的という言葉です。

敬和学園は個性的な学校、敬和の生徒は個性が強い、個性を持った人がたくさんいる。

たとえば賛美歌発表会でクラスを紹介するときに使われるのが、そして自分たちの学年を表現する時に、この言葉がよく使われます。

当たり前のように使われるのですが、私はどうも違和感があります。

何か思い違いをしているのではないかと感じることもあります。

中身に触れることなく個性的な人が多いというのは、実にありきたりです。

個性的という言葉は実はぜんぜん個性的ではない、ユニークではないのです。

そもそも個性のない人はいません。

個性とは違いですから、誰もが当たり前に持っているものです。

しかも個性というものは必ずしもいいものとは限りません。

周囲もそれ出されてよかったと思うより迷惑と感じるほうが多いのです。

中学まではそれを出したために弾かれるということが少なくなかったのです。

個性を出して目立つとはずされることになった、という体験のある人いると思います。個性を出すことによって周囲から裁かれるという体験をすると、あるいはそれを身近で見ると、できるだけ出さなくなります。

それが中学校までの学校生活を安全に過ごすための最善の方法であったという人が多くいるのです。

 

ところが敬和学園は必ずしもそうではありません。

実際に自分を平気で出している人が多く見られる。

自分の内面を出すことを警戒しなくてもいい、と感じられるようになる。

出してもそのことで省かれたりはずされたりはしない。

自分の内面や行動を制限しないで出してもゆるされるわけです。

敬和学園というのは個性的な人が多いのではなく、それを出しても許される、受け入れられる学校だということなのです。

このように自分を出すことが許されている、受け入れられる学校で生活しているわけですから、そうそういつまでも自分が嫌いで済ましていては、余りにももったいないということです。

自分が幸せな人生を送るための体験をたくさんしてきているのですから、それをぜひ生きる力と知恵、成長のエネルギーに変えていく、そうした自覚が今求められているのです。

体験と経験という言葉、その違いを余り意識しないで使う人が多いと思います。

この2つには大きな違いがあります。

体験というのはあくまで出来事です。

何々が起こった。失敗した。

そこにその人の思いや考えは入ってきません。

それに対して経験は体験したことを次に生かすという自分の意思を働かせることです。一つの体験を通して、次はどうしようこうしようと、対策を考える。前もってそうならないようにシュミレーションをすることです。

体験を体験としてただ重ねていくだけなのか、それとも経験に変えるのか、ほんのちょっとした違いなのですが、それによって人生そのものが大きく違ってきます。

体験を体験のままで終わらせず、それを次に生かす経験にしていく、そこで大事になるのが「忘れない」ということです。

そのことで悔やんだことを忘れない。

二度と同じ失敗はしないと流した涙を忘れない。

あの時の悲しそうな顔を忘れない。

あの時味わった喜びや達成感を忘れない。

それぞれが持っている自分だけの体験、それをぜひ経験に変えたいと思います。

それができたら、今の自分が好きになり、他の人の存在をゆるせるようになります。

自分を幸せな状況に置くことができるようになるのです。

そのことを忘れないで春休みに入りたいと思います。

4月4日の始業礼拝で、少し成長した、ものすごく成長したみなさんにぜひ会いたいと思います。

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