毎日の礼拝

校長のお話

2017/02/21

「イエスは何を叱ったのか」(マルコによる福音書4章35~41節) 2017.2.20

今日の箇所でイエスはが風と湖を叱りつけています。

イエスと弟子たちはガリラヤ湖という大きな湖をボートで渡っていました。

その時突然突風が吹き、雨も降ってきて、ボートが沈みそうになります。

ところがイエスは暢気に舳先でグーグー眠っています。

弟子たちは怖くなってイエスを揺り起こします。

起こされて機嫌を悪くしたのか、イエスが風と湖を叱ったのです。

でもイエスが本当に叱りたかったのは何だったのでしょうか。

私はこの箇所を読むと思い出す場面があります。

小学校3年生の夏のことです。

私が毎年楽しみにしていたのが、京都の教会が8月に滋賀県の琵琶湖で行う2泊3日のキャンプでした。

私は神戸に住んでいたのですが、11歳上の兄が大学の知り合いの関係からそのキャンプに参加するようになり、やがて私の家族も毎年参加するようになりました。

今でもこのキャンプで体験した楽しさをたくさん思い出すことができます。

ただその中で苦い思いとして甦ってくることが1つあります。

教会のキャンプ場がある場所から弧を描くように続く砂浜のその先の湖の中に鳥居が立っています。

直線にすると3キロぐらいです。

それは白髭神社という有名な神社の鳥居でした。

キャンプ2日目の午後、兄を含む大学生6、7人が2艘のボートで白髭神社まで漕いで行って帰ってくる相談をしていました。

その時たまたまそばにいた私に兄が言いました。

「二巳夫、一緒に行くか」。

ボートは順調に白髭神社に着き、浜に上がってお土産屋さんでジュースを飲ませてもらいました。

それはファンタグレープだったのを覚えています。

当時「ファンタを飲める」それだけで幸せを感じたものです。

白髭神社の境内で遊んだはずですが、そのあたりの記憶はほとんどありません。

 

記憶としてよみがえってくるのは、ボートでキャンプ場に戻る場面です。

いつの間にか風が吹き始めていて、しかも悪いことに向かい風でした。

兄たちがオールを懸命に動かしているにもかかわらず、キャンプ場が近づいてこないのです。

逆に沖に流され気味でした。

私はボートのヘリをぎゅっとつかんでじっとしているだけでした。

さらにギョッとすることが起こりました。

雨が降ってきたのです。

急に激しく雨が降り始めた雨のために水がボートの底に溜まり始めました。

私が記憶としてはっきり残っている声があります。

「うるさい、めそめそするな」。

それは兄が私に向かって叱った一声です。

冷静で何事にも動じないタイプの兄が怒鳴ったのは、私が不安な気持ちを言葉にしたのか、泣き始めたからだろうと思います。

兄はカチンと来て、怒鳴ったのでしょう。

判断が甘かった自分に腹を立てていたのかも知れません。

次に覚えているのは二艘のボートがモーターボートに引っ張られてキャンプ場に戻っていく場面です。

帰ってこない私たちを心配した大人が、隣のキャンプ場の人にお願いをしてモーターボートを出してもらって探してくれたのです。

今なら間違いなくニュースになっているはずです。

見出しは「無謀な大学生、ボートで沖に出る」。

私はこの出来事を思い出すたびに恥ずかしくなります。

何に恥ずかしさを覚えているかです。

 

今日の場面でイエス様は弟子たちから起こされて、風と湖を叱ったと書かれています。しかしイエス様が本当に叱りたかったのは弟子たちでした。

弟子のペトロたちはプロの漁師です。

ガリラヤ湖で長年魚を獲りながら生活をしてきたのです。

突然の嵐に遭遇することも何度も経験しているはずです。

ですから、イエスは船のことは彼らにまかせておけば大丈夫と全幅の信頼を寄せていたのです。

それにもかかわらず弟子たちはその信頼を裏切るかのようにイエスを起こしました。

その姿はひどく情けなく見えます。

「なんだ、こいつらのみっともないおびえようは。もう少しはましだと思っていたのに。まったく頼りにならない連中だ」。

イエスがこの場面で問うているのは信頼関係の大切さです。

信頼関係というのは一方通行ではありません。

AがBを信頼すれば、BもAを信頼すします。

反対にAがBを信頼しなければ、BがAを信頼するはずはありません。

人と人の関係、神と人の関係も、すべて同じです。

イエスが弟子たちを叱ったのは、何より彼らの成長を願ったからです。

私が神に全幅の信頼を寄せれば、神も私を深く信頼して下さるということです。

信頼の相手が自分である場合もあります。

これを自信といいます。

自信のある人は堂々と落ち着くことができます。

神に信頼を寄せている人も堂々とすることができます。

友人や仲間に対する信頼に溢れている人も堂々と落ち着くことができます。

私は50年前のあの日、ボートに乗せてくれた兄をとことん信頼すべきだったのです。

 

敬和学園の学校生活の中心にあるのは信頼関係です。

今そのことを自らに問う時でもあります。

来週には47回生を送る会があります。

できるだけの思いを持って送り出そうと、多くの人がそれぞれの立場での取り組みが進んでいます。

ハレルヤの合唱、学年の出し物。

しかし47回生を送り出すと言ってもそこには温度差があります。

一生懸命さについていけないという人もいるでしょう。

別に関係ないと覚めた気持ちの人もいるでしょう。

しかし人間にとってそうした自分の思いだけがすべてではありません。

自分の感情がいつも最優先されるべきでもないのです。

一生懸命取り組んでいる人のその思いに心を寄せる、その情熱に応えようとする、そこに信頼関係が生まれます。

同級生との信頼関係、学年をまたいだ頼関係、寮生活における信頼関係、教師と生徒の信頼関係、それは結局自分の学校生活をより安定させることになります。

そして47回生を送る取り組みを通して他者の信頼に応えることのできる自分が実感できたなら、それは自分が大きく成長できているということでもあるのです。

「あなたは信頼関係の中に生きようとしているのか」。

このイエスの問いかけに、しっかり応えることのできる1週間にしたいものです。