月刊敬和新聞

2017年2月号より「生徒に恵まれた学校」

校長 小西二巳夫

「羊と鋼の森」
 私は宮下奈都という作家の作品を読む時わくわくします。それはハッとさせられる言葉や、そこから思いを巡らす言葉にしばしば出会うからです。「羊と鋼の森」もまさにそうでした。「羊と鋼の森」の主人公は若いピアノ調律師の外村です。音楽にまったく関心のなかった外村ですが、高校二年生の時に、体育館のグランドピアノの調律をする場面に偶然出会ったのがきっかけで調律師になります。外村は自分に調律師としての特別な才能があるとは思っていません。でもこの仕事が日ごとに好きになっていきます。そんな外村がある日先輩との会話の中で次のように言いました。「僕はお客さんに恵まれているなあと思いました」。

敬和は生徒に恵まれているなあと思います
 この言葉に出会った瞬間、私は頭の中で別の言葉に変換しました。「敬和は生徒に恵まれているなあと思います」。学校が生徒に恵まれているとの言葉から想像できることは何でしょうか。一般的には勉強がよくできる人、出された課題をきちんとこなし提出できる人、スポーツで結果が出せる人、服装や態度がきちんとしている人、などがたくさんいることでしょう。それを基準にするなら必ずしも「敬和は生徒に恵まれています」とはなりません。敬和学園にとって生徒に恵まれているとは、抽象的な表現になりますが、内側に水を湛えているような、心に潤いを持った人がたくさんいることなのです。

2017入試労作
 先日2017年度の入学試験を行いました。今年もたくさんの中学生が敬和学園を受験してくれました。敬和学園が入学試験で大切にすることの一つに「受験生の持っている力をできるだけ引きだしたい」があります。そのための気遣いをしてきました。代表的なことが入試労作です。在校生が入学試験での重要な役割を担うという学校はまずありません。今回の入試労作に60数名の二年生と一年生が携わってくれました。60数人は全校生徒の10%以上にあたります。入試労作に実際に携わるのは、二年生と一年生だけですから、二つの学年の15%以上の人が働いてくれたことになります。入試労作は求められることが多く、うまくやって当たり前です。臨機応変も求められます。そうでなければ受験生とその保護者に迷惑をかけることになるからです。入試労作に携わってくれた人たちは、間違いなく自分の時間とエネルギーをたくさん使ってくれました。その働きへの見返りが何かといえば、お菓子の入った小さな紙箱でした。使った時間とエネルギーへの見返りとしては実に小さなものです。それは最初からわかっていました。入試労作を申し出てくれた人は、目に見える見返りを求めたわけではありませんでした。そういう気持ちを内側に湛えている生徒が多くいるのを称して「敬和は生徒に恵まれた学校」となるのです。

37回生学年テーマ「地の塩 世の光」
 それを三年間の敬和生活を終える47回生の学年テーマでいうならば、「地の塩、世の光」との生き方をすることです。今の時代、自分の存在をできるだけ大きくする、大きく見せることが重要視されます。多くの学校ではできるだけ大きな人間に育てることを目的にしています。そのために教育に競争原理が持ち込まれます。それによって内側に水を湛えるような人が育つでしょうか。「地の塩になる、世の光になる」を中心に生きることは決して自分の存在を大きくする、大きく見せることではないのです。塩は全体の味を変えることができる存在です。わずかな量で多くの物を生かす力が塩にはあります。光も多ければいいというものではありません。強い光や明るすぎる光は、まぶしくて物事をきちんと見られなくさせます。イエス・キリストは私たちに地の塩、世の光になることを求めています。イエスは小さな存在こそが、世の中にあって大きな働きをすると語っているのです。自らそのように生きられました。さらに地の塩になる、世の光になるとは、他者の存在を大切にするということです。それはそこにとどまることなく、社会に希望を生み出し、自らも生き生きと生きるとことにつながるのです。そのような真理を知った人たちがたくさん育つ、そして育ちつつある学校、それはまさに生徒に恵まれた学校です。