月刊敬和新聞

2016年12月号より「クリスマスを考える ―湯を沸かすほどの熱い愛が教えてくれること―」

校長 小西二巳夫

東西南北
 物事の違いを表わす時に使うのが「東西南北」です。たとえば「南北問題」、「東西の冷戦」などです。文化や習慣の違いも東西南北が使われます。公衆浴場がそうです。呼び名からして違います。東は銭湯で西はお風呂屋さんです。大きな湯船は東の場合一番奥にあり、壁にはペンキで富士山が描かれています。西の場合は真ん中にあってどこからでも入ることができます。壁にはタイルで模様が描かれます。それから風呂桶です。よく見るのが頭痛薬の商品名が入った黄色のプラスチックのものですが、湯船のお湯の使い方の違いもあって西は東に比べて一回り小さいのだそうです。

「湯を沸かすほどの熱い愛」
 その銭湯お風呂屋さんを舞台にした映画があります。タイトルは「湯を沸かすほどの熱い愛」です。物語は銭湯の女将双葉さんが末期ガンで余命二ヶ月と宣告されたことから始まります。動揺する双葉でしたが、そこでいくつかのことをやろうと決めます。一年前にふらっと出て行った夫一浩を探し出して銭湯を再開すること。心もとない生き方をしている高校二年生の娘安澄を自立させること、その娘にある人を会わせることなどです。そうした場合、ふつうは残された時間をできるだけ自分のために使うのではないかと思います。しかし双葉はその時間を家族や他者のために徹底的に使おうとします。そうした彼女の生き方に触れた人たちが漏らす言葉や生き方の変化にグッと来るものがあります。双葉と家族や出会った人たちの関係はイエス・キリストと弟子の関係を思い出させてくれます。もうすぐ十字架で死ぬことを知ったイエスの言葉や態度、行動によって、頼りなかった弟子たちが自らの行き方を見つけ力強く歩み始める様子が、聖書から読み取ることができます。

イエスキリストと弟子たち
 家族も銭湯も放り投げるように出て行き、他の人と暮らす夫一浩の行為は妻の立場からすれば受け入れがたいものです。しかし双葉の一浩への言葉は意外なものでした。「私が死んだら全部ゆるしてあげる。だから後のことはよろしく」。この言葉をきっかけに、一浩は自分の人生から逃げないで生きていこうとし始めます。家族や仲間に協力してもらって作った組み体操の三段ピラミッドの土台になって死を目前にした双葉に言いました。「俺がこうやって支えるから、全部任せろ、だから安心して」。娘安澄は母なしでは生きていけないと思っていましたが、次第に双葉の娘らしくありたいと思うようになります。同級生から受けるいじめをじっとガマンすることから、彼女なりの言葉と行動で状況を変えていきました。拓海という青年は生きる目的が見つからず、気ままなヒッチハイクをしていました。たまたまサービスエリアで出会った双葉の車に乗せてもらいますが、それをきっかけに自分の方向性を見つけていきます。拓海は後に言います。「あの日赤い車を選ばなかったら、今もぼくは死んだ様な人間のまま、どこかをさまよっていたに違いない。ぼくが選んだんじゃない。双葉さんがぼくみたいな人間を見つけてくれたのだ」。

私にとってのイエスキリストの誕生の意味
 イエスは弟子に言いました。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。このように双葉と出会った人たちの行き方の変化はイエスが十字架にかけられるのが怖くなって逃げた弟子たちのその後の力強い生き方そのものです。さらに双葉が他者のために全力を尽くし、自らの死を持ってすべてゆるすというのは、人間の罪のために十字架にかかることによってゆるしを乞うたイエスキリストの姿そのものです。
 クリスマスはそのイエス・キリストが一人ひとりのところにやってくることを再確認する時です。イエス・キリストが共に生きてくださる、支えてくださることをしっかりと考え、自分のものにする時です。クリスマスの出来事、イエス・キリストの誕生がこの私のためのものであることを実感することによって、それが生きる力になります。そのために今年のクリスマスを全力で迎えたいと思います。クリスマス礼拝・賛美歌発表会などの行事に真剣に取り組みたいと願います。