毎日の礼拝

校長のお話

2016/12/17

「湯を沸かすほどの熱い愛」(ルカによる福音書2章8~12節)

人や物の違いを明らかにする時に使われるのが東西南北という方角です。

戦争や紛争などでは「南北問題」「東西の冷戦」といった使われ方がされます。

文化や習慣の違いも東西南北が使われます。

その1つに公衆浴場があります。

呼び方からして違います。

東は銭湯と言います。

西はお風呂屋さんです。

東の場合、大きな湯船は一番奥にあります。

壁にはペンキで富士山が描かれています。

西の場合、湯船は真ん中にあってどこからでも入ることができます。

壁の絵はタイルで模様が描かれます。

それから、へえっーと思ったのが風呂桶です。

たいていのところには富山の頭痛薬のケロリンのロゴが入った黄色のプラスチックの桶が置いてあります。

それは一緒なのですが大きさが違います。

西は東に比べて一回り小さいのです。

理由は湯船からお湯を汲んで体にかけたり洗ったり習慣があって、大きな桶だとお湯がすぐに減るからです。

 

その銭湯お風呂屋さんを舞台にした映画と本があります。

タイトルは「湯を沸かすほどの熱い愛」です。

主人公の銭湯の女将さんに宮沢りえ、1年前からパチンコに行くと言ったまま帰ってこない夫にオダギリジョー、高校2年生の娘安澄に杉野花、そして松坂桃李が脇役で出ています。

物語は双葉が末期がんで余命2ヶ月と宣告されたことから始まります。

動揺する双葉でしたが、死を前にしていくつかをやり遂げる決心をします。

まず一浩を連れ戻し、休業している銭湯「幸の湯」を再開すること。

次に優しさのあまり頼りないままでいる娘安澄を自立させること。

さらに安澄をある人に会わせることです。

あと数か月しか生きられないとわかった場合、残された時間を自分のために使いたいというのがふつうのように思います。

しかし双葉は残された時間を家族をはじめ他者のために徹底的に使おうとします。

その彼女の姿勢に触れた人たちが漏らす感想や生き方の変化にグッとくるものがあります。

娘安澄ははは双葉に頼りっぱなしでした。

お母ちゃんなしに自分は生きられないと思っていました。

しかし次第にお母ちゃんの娘らしくありたいと思うようになり、それを実行していきます。

体育の授業中に制服を隠されるのですが、それまでの彼女ならただ黙って下を向くだけなのですが、双葉に励まされて体を張った行動に出ます。

そうして制服を取り戻し同時に生きる自信も取り戻します。

家族も銭湯も放り投げるように出て行き、他の人と暮らす一浩の行動は双葉からすれば許せるものではなかったはずです。

こうした場合、相手には、あなたのしたことは許せない、自分のしたことを謝りなさいでしょう。

しかし双葉は違いました。

彼女は次のように言ったのです。

「私が死んだら全部許してあげる。だから後のことはよろしく」。

一浩は自分が悪いということ、すべての責任は自分にあることはわかっていました。

それを自分の命と引き換えに許してあげるという言葉にはびっくりしたはずです。

そしてこれをきっかけに、自分の人生から逃げずに生きていこうと次第に変わっていきます。

そして死を目の前にホスピスの病室で過ごす双葉に、ホスピスの駐車場で家族と友人とで3段の組体操のピラミッドを作り、自分は土台となって叫びます。

「俺がこうやって支えるから、全部任せろ、だから安心して」。

松坂桃李演ずる拓海は生きる目的が見つからずヒッチハイクで旅をしていました。

たまたま高速道路のサービスエリアで出会った双葉の車に乗せてもらいます。

それをきっかけに自分の方向性を見つけていきます。

拓海は言いました。

「あの日赤い車を選ばなかったら、今もぼくは死んだような人間のまま、どこかをさまよっていたに違いない。ぼくが選んだんじゃない。双葉さんが僕みたいな人間をみつけてくれたのだ」。

クライマックスは双葉のお葬式の場面です。

式場は銭湯の中です。

祭壇を一番奥にある湯船の上に作り、参列者は脱衣場に座ります。

そして出棺の後、斎場に行って火葬にするのかと思ったら、実は内緒で銭湯をお湯を沸かす釜で燃やされるのです。

その熱で沸かしたお湯に家族と友人が入ります。

まさに双葉が自らの命を燃やして、家族や出会った人たちを温かいお湯で包む、愛し続けてくれることを表しているのです。

そのことを拓海は次のように言いました。

「双葉さんに出会ったみんなの中から、彼女の存在が消えることはない、これからも生き続けるに違いない」。

 

双葉と家族や出会った人たちの関係は、イエス・キリストと弟子たち関係を思い出させてくれます。

もうすぐ十字架で死ぬことを知ったイエスの言葉と行動によって、頼りなかった弟子たちが自らの生き方を見つけていく様子が聖書には書かれていますが、まさにそれに重なります。

イエスは弟子たちに言いました。

「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのである」。

安澄は双葉の棺を前に誓いました。

「あたしのためにすべてを捧げてくれたお母ちゃんを、今度はあたしが安心させてあげなければ」。

これはイエスの十字架を前に怖くなって逃げた頼りない弟子たちの決心そのものです。

そして無責任にすべてを放り出していなくなった一浩の過ちを、自分が死ぬことですべてを許してもらうというのは、人間の罪のために十字架に架かることによってゆるしを乞うたイエス・キリストの姿そのものです。

 

クリスマスはそのイエスが一人ひとりのところにやって来ることを伝える物語です。

そしてアドベントはイエス・キリストが共に生きて下さる、支えて下さることをしっかりとらえ、自分のものにする時間です。

それができたら何にも負けない生きる力を持つことになります。

そうした自分になるために、今年のクリスマスに、賛美歌発表会に真剣に取り組みたいと願います。