月刊敬和新聞

2016年10月号より「2016 ホームカミングデーから見えてきたもの」

校長 小西二巳夫

5、15、25、35回生を迎えて
 今年も10月8日にホームカミングデーを開きました。これは卒業生で60歳、50歳、40歳、30歳になった人たちを迎えての行事です。今年は5、15、25、35回生の人たちが対象です。お誘いの言葉は「敬和生活の一日を追体験することで、日々の生きるエネルギーを取り戻してください」です。ところで卒業生にとって敬和学園での学校生活といえば何が思い出されるでしょうか。全校礼拝が一番多い答えです。敬和といえばランチです。昼ごはんがおいしそうだから進学先を敬和にしましたという人が少なからずいます。ホームカミングデーの新しい企画として模擬授業を行いました。中学生のためのオープンスクールを参考にしたものです。聖書は私が担当することになりました。

マタイによる福音書22章34~40節を四文字熟語にすると
 聖書の模擬授業の時のことです。参加者は5回生、15回生という年齢の高い方がほとんどです。最初に聖書を読んでもらいました。マタイによる福音書22章34~40節です。律法の専門家の意地の悪い質問に、イエス様が全力を尽くして、主なる神を愛しなさい、隣人を自分のように愛しなさいと答えられた箇所です。敬和学園にとって一番大事な箇所です。そこで質問しました。「ここを馴染みのある四文字熟語にして下さい」。すぐに答えてもらえると思いました。返ってきたのは「誠心誠意」。「心を尽くし、精神を尽くし…」とありますから、間違いではありません。でも期待される答えではありません。次は「世界平和」。隣人を自分のように愛することが平和の原点ですが、「う~ん」です。後ろの席に座っている35回生が笑っています。私は黒板に「敬神愛人」と書きました。「敬和学園の建学の精神ですよね。敬和学園にとって一番大事な四文字熟語ですね」。「建学の精神、そうだったかなあ、でも確かに大事にしてもらったなあ」。こうして始まった聖書の授業は真剣さと笑いに終始包まれました。

よく叱られました  でも大事にしてもらいました
 授業が終わって少し時間がありましたので5回生の人と立ち話をしました。授業中や行事の時によく叱られたとのことです。「教科書は、ノートは、早く出しなさい。コラ寝るな、しっかり目を開けろ…」。「遅刻するな、服装きちんとしなさい」。思い出すのはそういう言葉ばかりだというのです。けれど、その声や言葉は今もうれしく思い出されるとのことです。当時も自分が大事にされていることが何となく感じていたけれど、今はますますそう思えるようになった。それぞれの先生がそれぞれの注意の仕方、それぞれの叱り方で気遣ってくれたことがありがたかったと実感しているとのことでした。

敬和学園のルールは気遣いに始まり気遣いに終わる
 敬和学園は校則などのルールがゆるいと思われがちです。たとえば服装です。十人十様です。シャツやパンツスカートが違う…。ブレザーだけが同じです。制服すべて同じと考える人には納得できないかも知れませんが、そこに一定の幅があっていいと考えます。すべて同じであるべきだとなると、ちょっとした違いもゆるされません。それは人格などの内面にまで関係します。個性が認められない息苦しい学校生活につながります。結局はその人の良さや力を引きだせなくなるのです。敬和学園のルールはあくまで他者への気遣いから出発します。周囲の人を嫌な気持ちにさせない、そこを大事にできる人に成長してもらいたいのです。よく出てくるのが、先生によっていうことが違う、○○さんは注意されないのに、私はすぐに注意される、不公平だ…です。人によって違うのは当たり前です。受けとめる方も、その一言に腹が立つときもあれば、納得できる時もあるのです。たとえば私ですが、全校礼拝を終わってチャペルから出て行く時に、前のベンチに足をかけている人を見れば「その長い脚、前にかけるな、態度悪いで」と言います。でも時には黙って通り過ぎることもあります。「しんどいんやろうなあ、家でなんかあったんかもしれへんなあ、それでも学校に来て、礼拝に出てんねんなあ、えらいな」。悲しみや痛みなどが感じられる時には、あえて何も言わないこともあるのです。それを不公平と言うなら、それはそれで構いません。敬和学園が大事にしていることが何か、そして自分が大事にされていることが実感できるのは後になってからということが多いのです。ただ大事なことは後になってわかるということを今大事にする、そのことを忘れず毎日の学校生活を過すことです。敬和学園の教育の在り方をあらためて教えられた一日となりました。