毎日の礼拝

校長のお話

2016/10/11

「ホームカミングデー」(コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~2節)

先週土曜日にホームカミングデーがありました。

これは卒業生で60歳、50歳、40歳、30歳になった人たちを対象にした行事です。今年は5,15,25,35回生の人たちが来られました。

それぞれの回生と家族、そして退職された先生たち、130人以上が来られました。

ホームカミングデーのお誘いの言葉は「敬和生活の一日を追体験することで、日々の生きるエネルギーを取り戻してください」です。

敬和学園での3年間をもう一度体験することによって元気になってもらいたいと考えています。

ところで卒業生にとって敬和学園での学校生活といえば何が思い出されるでしょうか。

この質問にたいていの人が全校礼拝と答えられます。

敬和といえばランチです。

ランチがおいしいから進学先を敬和にしましたという人、この中にもいると思いますが、卒業生にもそういう人が少なからずいます。

ホームカミングデーの新しい企画として模擬授業を行いました。

これはみなさんがオープンスクールで体験した模擬授業を参考にしたものです。

教科は社会、英語、音楽、そして聖書です。

聖書は私が担当することになりました。

 

その聖書の模擬授業の時のことです。

参加者はどういうわけか5回生、15回生という、余り馴染みのない人がほとんどです。

最初にプリントに印刷した聖書箇所を読んでもらいました。

マタイによる福音書22章34~40節です。

律法の専門家がイエス様に意地の悪い質問をした箇所です。

専門家は律法の中で一番大切なことは何ですかと尋ねました。

それに対してイエス様が「全力を尽くして、主なる神を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」と答えたところです。

この箇所は敬和学園にとって一番大事といっていい箇所です。

そこで私は出席者に質問したのです。

「この箇所を4文字熟語にすると何ですか」。

考えなくてもすぐに答えられるはずです。

しかしみんな考えているのです。

ちょっと不安を感じながら指名しました。

返ってきた答えは「誠心誠意」。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」と書いてありますから、間違いとは言えません。

でも期待される答えではありません。

次の答えは「世界平和」でした。

隣人を自分のように愛することが平和の原点ですが、「う~ん」です。

私は言いました。「この箇所は敬和と大いに関係があるのですが…」。

反応は「へぇー」です。

後ろの席に座っている35回生が笑っています。

そこで私は黒板に「敬神愛人」と書きました。

「敬和学園の建学の精神ですよね。敬和学園にとって一番大事な言葉です」。

「建学の精神、そうだったかなあ、でも確かに大事にしてもらったなあ」。

こうして始まった聖書の授業は真剣さと笑いのあっという間の45分間でした。

 

授業が終わって次の各回生に分かれての模擬ショートホームルームまで少し時間がありましたので年齢の高い卒業生と立ち話をしました。

当時授業中や行事の時によく叱られたとのことです。

「教科書は、ノートは、早く出しなさい。コラ寝るな、しっかり目を開けろ…」。「遅刻するな、服装きちんとしなさい」。

思い出すのはそういう言葉ばかりだというのです。

けれど、その声や言葉は嫌なものではなく、今思い出してもうれしかったそうです。当時も自分が大事にされていることが何となく感じられていたけれど、今はますますそう思えるようになった。

それぞれの先生がそれぞれの注意の仕方、それぞれの叱り方で気遣ってくれたことがありがたかったと今実感しているとのことでした。

卒業生のこの言葉は敬和の教育の大切な部分を語ってくれています。

敬和学園は他の学校に比べて校則などのルールがゆるいと思われています。

あいまいだとも言われます。

それは大いなる勘違いですが、表面的にはそういう受け止め方がされがちです。

目で見てわかるのが服装制服です。

10人並んだら10ともどこか違います。

シャツが違う、パンツスカートが違う、靴下靴が違う、同じなのはブレザーだけです。

制服というものがすべて同じだと考える人にはおかしいと思えるかも知れません。

けれど敬和学園はすべて同じでなければならないとは考えません。

一定の幅があっていいと考えます。

すべて同じであるべきだとなると、ちょっとした違いも許されません。

そしてそういう考えは服装だけでなく、その人の中身にまで関係します。

個性が認められず個性が出せず、息苦しい学校生活につながります。

結局はその人の良さや力を引きだせなくなるということになってしまいます。

敬和学園の服装のルールはあくまで気遣いを中心に考えられています。

周囲の人を嫌な気持ちにさせない、思わず目を背けたくなるような、この人一体どんな教育を受けているんだろう、と思いにさせない、そこを大事にできる人に成長してもらいたいのです。

そのことの大切さを気づくまでには時間がかかるのかも知れません。

 

そこで言われるのが、先生によっていうことが違う、注意する先生としない先生がいる、です。

○○さんは注意されないのに、私はすぐに注意される、不公平だ。

そのことで私が質問されることがあります。

なぜ先生によって注意の仕方がちがうのですか、学校としておかしくありませんか。

私は答えます。「人によって違うのは当たり前です」。

だいたい受けとめる方もいつも同じではありません。

その一言にものすごく腹が立つときもあれば、納得できる時もあるのです。

たとえば私ですが、この礼拝が終わって出て行く時に、ベンチにごろっと寝ている人、前のベンチに足をかけている人を見たとします。

「その長い脚、前にかけるな、態度悪いで」と言うでしょう。

でも時には黙って通り過ぎることもあります。

見て見ぬふりをすることもあるのです。

「しんどいんやろうなあ、家でなんかあったんかもしえへんなあ、それでも学校に来て、礼拝に出たんやろ、そういう態度で自分を何とか支えているんやろなあ」。

そこに悲しみや痛みなどが感じられる時には、あえて何も言わないこともあるのです。

それを不公平と言うなら、おかしいというならそれはそれで構わないと思っています。敬和学園が大事にしていることが何か、そして自分が大事にされていることが、実感でできるのは、後になってからだということが多いからです。

ただ大事なことは後になってわかるということを今大事にする、そういうことなんだと今知っておくことです。

定期テストしっかり取り組むことはまさにその一つです。

それでは今日から始まる大事に定期テストにしっかり取り組みましょう。