月刊敬和新聞

2016年6月号より「2016フェスティバル こんなわたしを助けてくれてありがとう」

小西二巳夫(校長)

弱さが私のこれまでを支えてきた
 「あんたはすぐに人に頼ろうとする。人の助けを当てにする。悪い癖や。それ、何とかしなさい」とは子どもの頃の私に対する母の口ぐせでした。私は確かに人に頼ろうとするところが強かったと思います。その我が子が情けなく見えて、ダメな部分をしっかり自覚させて、なおしてやりたいと願う親の言葉としては至極当然だったでしょう。そうした自分を何とかしなければと思いつつ過ごしてきましたが、50年60年経った今も本質的には変わっていません。
 しかしこの歳になって気づかされることがあります。弱さは必ずしも私をダメにしてきたとはいえないことです。仕事上のこともプライベートでもあれこれ考えるのは大好きです。ただ考えついたことや閃いたことを自分の手で形にできるかといいましたら、まず無理です。周囲の人にお願いしなければ、助けてもらわなければ具体的には何もできないのです。すぐに誰かに助けてもらおうとする私の弱さが、これまでの私を根底から支えてきてくれたといえます。

無責任この上ない責任論
 助けてほしい時や弱っている時に「助けてください」と言うことが年々難しくなってきました。そうはさせてくれない空気が世の中を強く支配するようなってきているからです。「自己責任」という言葉が大人の間で当り前のように使われます。悪い状況や結果を招いたのは自分だから、それを誰かに頼り助けてもらおうとするのは間違っているとの考え方です。あくまで自分で解決しなさい、自分の責任で決着をつけなさいというわけです。その影響を誰が受けるかといえば社会的に弱い立場で生きている人です。子どもたちや若い人たちも社会的弱者の一人です。その彼らが今、率直に助けてくださいと声を出せなくなっているのです。そこで問われるのが教育の果たすべき役割です。

フェスティバル、エンディングでのチーフの叫び
 6月10、11日にあった2016フェスティバルは近年にない好天の中で二日間のプログラムをやり終えました。すべての表彰が終わった式台の上に6連合12人の総合チーフが上がり、ぐるっと取り囲んだ全校生徒を前に、マイクを握って自らの思いを声にしました。1連合百数十名を率いる責任と重圧から解放された彼らの言葉には実感がこもっています。感極まって涙声になるチーフに「がんばれ」との声援も飛びます。この場面を目の当たりにしながらあらためて気がついたことがあります。チーフたちの言葉に共通していたのは、自らの非力さと無力さのためにリーダーとしての役目を十分に果たすことができなかったことを謝りつつ、その自分を助けてくれたことへの感謝です。「頼りない自分を助けてくれてありがとう。感謝しています。みんな大好き」と素直に語りかけたのです。この言葉を投げかけられたメンバーはどのように受けとめたのでしょうか。

敬和学園は助けを求める存在であり続けたい
 今の時代にフェスティバルをはじめとする行事を通して、子どもたちに実感として持ってもらいたいのはこの感覚かも知れません。助けてもらうこと、それを声にすることはダメなことではなく、生きる上で自分を支える大きな力になるという感覚です。自分の力量や判断力ではにっちもさっちもいかなくなったと思える時に、その自分をダメな人間として責めることなく、他者に助けを求めることが決して迷惑なことではないことを知った生き方があることです。「助けてほしい」との言葉が相手を大いに生かすことにもなるのです。チーフの「助けてくれてありがとう」との声に自分の活動と存在そのものが意味があったと受けとめることができたならば、今年のフェスティバルは一つの使命を果たしたことになります。人間教育を標榜する学校として、フェスティバルをはじめとする行事の教育における重要性をさらに深く考えなければならない時代に入ったようです。それは同時にこれまで以上に保護者のみなさんをはじめとする関係者の協力をお願いすることでもあります。敬和学園自らが周囲に助けを求める存在であり続けることをどうぞお許しください。