毎日の礼拝

校長のお話

2016/05/10

「死んだ男の残したものは」(ヨハネによる福音書16章31~37節)

先日BSテレビで1960年代から70年代によく歌われたフォークソングを特集した番組がありました。

つまり私の高校時代に流行った曲が次々に歌われ演奏されたわけです。

その一つに「死んだ男の残したものは」という曲がありました。

当時アメリカはベトナムで戦争を行っていました。

アメリカ軍の激しい爆撃によって一般市民の多くも犠牲になっていました。

爆撃機が飛び立ったのは沖縄にあるアメリカ軍基地です。

そういう現実もあって、当時ベトナム戦争に反対する活動が盛んでした。

そうした中で「死んだ男の残したものは」は作られました。

作詞は詩人の谷川俊太郎さん、作曲は武満徹さん、さらに歌ったのは友竹正則さんでした。

いわば当時の超一流の音楽家たちがが平和を願って作った曲です。

 

1.死んだ男の残したものは   ひとりの妻とひとりの子ども

他には何も残さなかった   墓石ひとつ残さなかった

2.死んだ女の残したものは   しおれた花とひとりの子ども

他には何も残さなかった   着もの一枚残さなかった

3.死んだ子どもの残したものは ねじれた脚と乾いた涙

  他には何も残さなかった   思い出ひとつ残さなかった

4.死んだ兵士の残したものは  こわれた銃とゆがんだ地球

他には何も残せなかった   平和ひとつ残せなかった

5.死んだかれらの残したものは 生きてるわたし生きてるあなた

他には誰も残っていない   他には誰も残っていない

6.死んだ歴史の残したものは  輝く今日とまた来る明日

他には何も残っていない   他には何も残っていない

 

この曲は自分があとに残すべきものは何かを教えてくれます。

人にとって本当に意味があるのは、自分が生きた証しとして何かを残すことではなく、生きているそのこと自体だということです。

だからこそ、その人から生きることを奪い、家族の命を奪うことは許されないことだ、それを平気で行う戦争は決して許されるものではないと、歌うのです。

これはベトナム戦争に対する反戦のメッセージですが、それはそのまま今、日毎に激しさを増している中東アジアでの戦争と紛争に対する言葉にもなっています。

シリアをはじめてとして多くの国で、戦争と紛争、テロ行為によって多くの人が明日の希望が持てない、絶望的な状況の中に生きなければならないのです。

もうこれ以上生きたくない、生きていても仕方がない、何の意味もないとの思いを持って生きているが少なからずいるのです。

それは戦争や紛争だけに限ったことではありません。

私たちの人間関係の中でも、そうした思いを持っている人も少なからずいます。

今の自分自身がそうだという人、それが今身近で起こっているという人が、この中にもいるかも知れません。

それではそういう状況にある人にどのような言葉をかけたらいいでしょうか。

どうすれば絶望をやわらげ、慰めを与え、生きたいとの希望を持ってもらうことができるようになるのでしょうか。

 

それを自らの生き方で教えてくれたのがイエス様です。

イエス様はもうすぐ自分が十字架にかかって死ぬことを知っておられました。

そのことから逃げられないことがわかっていました。

つまりイエス様自身が絶望的な状況に陥っていたのです。

そもそも周りにいるのは頼りない弟子たちです。

彼らはイエス様のことをしっかり理解できていません。

ですからイエス様がユダヤ当局に拘束されることになったら、こわくなって逃げだすことはわかっていました。

しかしいくら逃げても、それで済むはずはありません。

たとえ元の生活に戻っても、彼らはイエスの元弟子として世間からはじかれた生活をしなければならないでしょう。

さらにイエス様を裏切った自責の念を持って、自分の身勝手さと情けなさを抱えながら生きなければならないでしょう。

つまりイエス様の弟子たちは、イエス様が十字架に架けられて殺された後、絶望的な状況、孤立の中で生きなければならないのです。

そこでイエス様は弟子たちに14章からの長い話をされたのです。

それは「死んでいく男が、死んでいくイエスが残したものは」です。

先ほど読んでもらったのは最後の部分です。

 

ヤスパースという精神学者がいます。

彼によると、人間が追い詰められた状況になった時に時に示す反応には3つあるそうです。

1つ目はパニック状態になることです。

もうだめだとすべて投げ出す。

周りに当り散らしたり壊したりという破壊的な行動に出ることです。

心当たりのある人、いると思います。

2つ目は妥協することです。

考えることをやめるのです。

言い換えたら生きることをやめのです。

確かにこれもあります。

そして3つ目は、自分の弱さを見つめつつ、その自分を受け入れてくれる存在、自分を大きく包んでくれる存在がいることを知るようになるというのです。

聖書はそれが神様イエス様だ、と考えていいます。

イエス様の目の前にいるのは、もうすぐ自分を裏切ることになる弟子たちです。

ふつうならその弱さを叱るでしょう。

罰を与えてやろう、困らせてやろうというのがふつうでしょう。

しかし、イエス様はやがて孤立することになり、にっちもさっちもいかなくなり、絶望的になることがわかっている弟子たちに、その時に思い出すようにと言葉を残されたのです。

「あなたがたには苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

元気を出して、安心して生きていきなさい。

あなたは一人で歩いているのではない。

私があなたと共に歩いているのだとの言葉を残されたのです。

弟子たちはこの言葉を思い出すことによって、自分らしく自分の人生を生き抜くことができるようになるということです。

実際、それぞれの弟子たちは自分にふさわしい生き方を見つけることができました。

希望を失うことなく最後まで生きたのです

その同じ言葉をイエス様は聖書を通して、私たち一人ひとりにかけて下さっているわけです。

そこに気づきたいと思います。

そこから新しい1週間を過ごしましょう。