毎日の礼拝

校長のお話

2016/03/07

「愛しき人生のつくり方」(創世記33章10~11節)

しばらく前の金曜日の夜のことです。

どうしても見たい映画があって小新にあるイオンシネマ新潟西に行きました。

映画のタイトルは「愛しき人生のつくり方」、フランス映画です。

夜8時30分からの上映で、場内に入った時は予告編がすでに始まっていました。

入って一瞬アッと思いました。

お客さんが一人もいないのです。

後で調べたら座席は240ありました。

局私以外にお客さんは入ってきませんでした。

大きなスクリーンを独り占めにするというのはまさにこのことです。

フランスのパリに住む80歳代後半の女性マドレーヌは夫を亡くし、アパートで一人暮らしをしています。

ある日転んでケガをします。

郵便局を定年退職したばかりの息子は心配して彼女を老人ホームに入居させます。

そのマドレーヌを孫の大学生ロマンがホームをしばしば訪ねて話し相手になっていたのですが、ある日、彼女は老人ホームから逃げ出しました。

数日後マドレーヌからロマンに元気でやっているとのハガキが届きます。

消印はパリにある国鉄の駅サン・ラザールのものでした。

それを見た息子は郵便局に長年勤めていたこともあって、そして母親から小さい時の話を多少聞かされていたこともあって、彼女が生まれ故郷のノルマンディー地方のエトルタという町に行ったと考えました。

そしてロマンに祖母を探しに行くよう頼みます。

 

ノルマンディー地方はパリの北西にあります。

ドーバー海峡を挟んで向こう側はイギリスです。

第2次世界大戦の時、フランスを占領していたドイツ軍をアメリカと・イギリスの連合軍が上陸作戦を起こった場所です。

第2次世界大戦の中で最も激戦が繰り広げられた、というより多くの犠牲者を出しまた場所です。

マドレーヌ一家は彼女が小学校3年生の時に戦争を逃れてノルマンディーを離れます。

それから彼女は一度も帰えることがありませんでした。

家族には自分の生まれ故郷の話をほとんどしていなかったようです。

その彼女が人生の終わりに自分の原点を見つめ直すために、老人ホームを逃げ出したのです。

マドレーヌを見つけた孫のロマンは数日過す中で彼女の過去を知ることになります。そんな彼女にサプライズを用意します。

それは彼女が転校せざるを得なかった小学校の3年生のクラスに1日入学させてあげることでした。

担任の先生の協力を得て、書き取りや計算問題のテストを受け、給食を一緒に食べ、そして質問の時間を作り最後はクラスの子どもたちがマドレーヌの絵を描いたのです。その晩ホテルに戻ってきたマドレーヌは倒れ、そのまま息を引き取ります。

天に召された彼女の顔はたいへん安らかでした。

彼女はお別れ会を開いて見送ってくれたにもかかわらず、悲しくて振り返ることのできなかった80年前の自分に出会うために老人ホームを逃げ出したのです。

そして80年経った自分がなお「許されて」生きてきたことがわかったのです。

 

旧約聖書創世記25章からエサウとヤコブという双子の物語が始まります。

ヤコブは生まれる前からたいへん勝気でした。

ですから母親の胎内から出てくるとき、兄エサウに先を越されたくないと、兄の足首をつかんで出てきたとあります。

チャンスがあれば自分が先に生まれようとしたわけです。

古代社会では一族一家の財産や権利は長男がすべて受け継ぐのがきまりでした。

先に生まれるか後に生まれるかで、人生大きく変わったのです。

ヤコブは兄より自分の方が優れていると思っているにもかかわらず、相続権がないことにガマンなりませんでした。

何としてでも相続権を自分のものにしたかったのです。

このあたり徹底的な自惚れと自己中です。

そしてある日、年老いて目が悪くなった父親のイサクをだまして相続権を譲り受けます。

ところがそれを知った兄のエサウが烈火のごとく怒って、絶対許さないとばかりに弟を殺そうとします。

そこにヤコブの誤算がありました。

普段は温厚な兄エサウだから、もし相続権を失ってもそれはそれで収められると考えていたのです。

想定外の展開にヤコブは逃げ出すしかありませんでした。

それから以降、ヤコブは見知らぬ土地で苦労を重ねながらも、そこは知恵がありましたから、多くの財産や土地を手に入れていきます。一族も大いに繁栄します。

ただ恵まれた状況になればなるほど、かつて自分が騙して逃げ出した兄のところに帰って、関係の回復をしたくてたまらなくなりました。

一言謝ってゆるしてもらいたかったのです。

そこで意を決して兄のもとにやって来ます。

ヤコブはそれなりの覚悟をしていました。

ひょっとしたら、兄エサウはまだ怒りが収まらず、自分をゆるさないかもしれない。

積年の恨みとばかりに自分を殺すかもしれない。

ところが、何十年ぶりかで再会した兄エサウの顔、表情は10節に書いてあるように「神様の顔」のように見えたとあります。

憎しみに溢れた怖い顔を想像していたのですが、そうではなく、兄エサウの顔はゆるしであふれていたというのです。

そこでヤコブは気がつきました。

おろかにもかかわらず、自分がこれまでやってこられたのは、そこに神様のゆるしがあったからこそということに、気がついたのです。

自分の人生が神様に守られてきたから、今があるということがわかりました。

 

キリスト教が大切にするのは「ゆるし」です。

イエス・キリストの十字架によって許されて生きるというのが、キリスト教の出発点です。

そこで私たちに求められるのは、ゆるしに応えた生き方をすることです。

ゆるしに甘えた生活ではありません。

あくまでゆるしに応えた生き方です。

今週から第5定期テストが始まります。

それを経てそれぞれが進級と新しい進路を目指します。

敬和学園の学校生活も神様のゆるしを前提としています。

私たちは求められること、それはゆるしに甘えるのではなく、ゆるしに応えた学校生活をすることです。

目の前にある課題から逃げないことで、それに応えられる自分になりたいと思います。