月刊敬和新聞

2016年2月号より「教育はいつも意図的でないものが含まれる」

小西二巳夫(校長)

 初優勝 大関琴奨菊
 1月にあった大相撲初場所は10日目以降、大関琴奨菊が優勝するかどうかで大きな盛り上がりを見せました。10年ぶりで日本人力士が優勝するかもしれないとの期待が高まってきたからです。琴奨菊はそれに応えて千秋楽15日目も勝って優勝しました。31歳という年齢と何度も大きなけがをしての優勝です。喜びもひとしおだったでしょう。できるならじっくり感慨にふける時間がほしいはずですが、周囲はそのような余裕を与えてくれません。象徴的なのがテレビの解説者の言葉でした。優勝が決まった瞬間言いました。「これからがんばってもらわないとね。来場所の優勝を目指してしっかりやってもらわないと、あの優勝は何だったのといわれるからね」。相撲関係者の気持ちとしてはわかりますが、しかし優勝した瞬間に、すぐに次の目標に向いなさい、横綱目指してがんばれというわけです。 

 アドベンチャーレーサー 田中陽希
 それからしばらくして、テレビで「グレートトラバース 日本二百名山一筆書き」のダイジェスト版を見ました。これはアドベンチャーレーサーの田中陽希さんが北海道から鹿児島県までの8,000㎞を約200日間で、一切の交通機関を使わず人力だけで100の山に登るという挑戦を追う番組です。田中さんが今回の挑戦で目標の一つにしたのが2016年のお正月は実家で過ごすことでした。ところが挑戦も残す山が四つとなった時、そのままのペースではそれが実現できないことがわかりました。そこで田中さんは少しでも時間を稼ごうと必死に先を急ぎ始めます。しかし数日後、島根県の三瓶山に登る朝に呟きました。「鉢回りをしよう」。三瓶山には頂が四つあって、一つに登ればいいのです。けれど田中さんはたとえ時間が大幅にかかっても三瓶山を登る最高の楽しみである四つの頂を登る「鉢回り」をしようと決めました。山登りの本来の楽しみは、時間を競ったり技術力を誇ったりすることではなく、登ること自体を楽しむことです。それを忘れて目標を達成するためにだけ登っては、むなしいと考えたのではないでしょうか。自らを縛っていたことから解放された田中さんの表情は輝きを取り戻していました。 

 たべたのだあれ 五味太郎
 五味太郎さんの絵本に「たべたのだあれ」があります。さまざまな食べ物が出てきて、それを食べた動物を当てながら読み進めていくお話です。1ページは「サクランボたべたのだあれ」です。2頭のゾウが出てきます。1頭のゾウのしっぽの先がサクランボになっています。次は「イチゴたべたのだあれ」です。ライオンが3頭出てきます。鼻がイチゴになったライオンが一頭います。食べたものの隠し方がユーモラスです。この絵本にはさらに仕掛けがあって、ページが進むにつれて動物の数がだんだん増えていきます。食べ物を見つけたり、数を数えたり、読み聞かせの声の調子を変えることによって、様々な楽しみ方ができます。ある人がこの本を書いた目的は何かを五味さんに尋ねました。五味さんは次のように答えました。「一つの答えや方向を導きだす必要はない。本を読めばいい子になるとは限らない。子どもは無意識に、みんなで仲良くとか、物を大事にしようとか、目標や目的があることにうんざりしていると思う」。 

 意図的教育には意図的でないものが含まれる
 学校教育には目標や目的、意図があります。人として大切なことを身に着けるために、社会を支える一員になるために、子どもたちに時間をかけていくつものことを学んでもらいます。ただ学年が上がるにつれて目前の数字や競争での結果を出すことが目標にされます。この目的に応えられる子どもになってもらう、目標に速く到達できる子どもになってもらうための働きかけが強くなります。それが教育の中心になると学ぶことが楽しくなくなっていきがちになります。本来の楽しさを子どもから奪うことになりかねないのです。教育は意図的なだけに内側に意図的でないものが含まれているはずです。それを忘れては本物の教育はできません。敬和学園が創立以来大切にしてきた「…人皆に美しき種子あり、明日何が咲くか」には、そうしたことへの自戒が込められています。意図的ではないものを大切にする、それは言い換えれば神に信頼することです。敬和学園はこれからも意図的でないもの、目に見えないものを大切にする教育の中心に、神自らが働いて下さることを忘れず日々勤しんでいきたいと願っています。