月刊敬和新聞

2014年12月号より「クリスマス  ―イエスは面倒な子どもだった 面倒を引き起こす子どもだった そしてすべての人の救いとなった―」

小西二巳夫(校長)

物語 エッサイの木
 エッサイの木というお話があります。主人公は年輩の大工さんです。教会で「エッサイの木」を彫る仕事をしていました。エッサイの木とは家系図のようなもので、文字が読めない人にも、世界の始まりからイエスの誕生までを書いた聖書の話がわかるようになっている木彫りのことです。彼は人づきあいが苦手でした。誰かに声をかけられてもジロッとにらむだけで、あまり好かれてはいませんでした。その大工さんのところへ突然夏休みで町に観光に来ていた少年が入ってきました。少年は大工さんに、エッサイの木彫りを見ながら思いついたことを聞きます。大工さんは仕事を邪魔されてはたまらないと思い、この面倒な少年を追い払おうとします。しかし、少年は大工さんの邪険な応対を気にせず、質問を次々します。少年の屈託のない態度や言葉に、大工さんはついつい聖書にまつわる話をさせられることになります。初めは関わることを面倒臭さがっていた大工さんですが、次第に面倒な少年がやって来るのを心待ちにするようになります。

私は自分が面倒な存在に思えて嫌いだった
 面倒な子どもということでいうなら、私はまさにそうだったと思います。母親から「お前は面倒な子どもだ。育てるのに手間暇がかかる。お前を育てるために寿命が10年縮む」としばしば言われました。それは的を射た言葉でした。ですから逆に、何でこんな子どもに産んだのかと親を恨みたくなりました。自分を何ともできないもどかしさがいつもあったのです。そんな自分を好きになれるはずがありません。たいてい浮かない表情をしていたのではないでしょうか。その私にある時、11歳上の離れて暮らす兄がある一言を言ってくれたのです。「お前は何も悪い子でないよ。面倒な子どもは親にとって大切なんだ。だからそのまま大きくなったらいい」。

イエスこそ面倒な子だった
 聖書のイエスの誕生にまつわる話を読みますと、イエスは親や周囲の人にとって私などと比べ物にならないくらい面倒な子どもであったことがわかります。母になるマリアのところに天使がやってきて「おめでとう。恵まれた女よ…」とイエスを身ごもったことを伝えます。これは結婚前のマリアにとって実に面倒な出来事であったに違いありません。イエスの出産を前にして、マリアとヨセフは人口調査のために故郷に戻らなければなりませんでした。いつもなら静かな村であるベツレヘムも同じように戻ってきた人々でごった返していました。そのため彼らは泊まる場所がなかったのです。マリアが産気づいたのはそうした時でした。ですから彼女は仕方なく家畜小屋で産むことになったのです。それに加えて東方の博士たちから救世主の誕生を知らされたヘロデ王は自分の立場を守るため二歳以下の男子をすべて殺すことを命じました。そのように考えると、イエスは実に面倒な子ども、面倒を引き起こす子どもだったことがわかります。

面倒な子イエスだからこそ救い主となった
 物語「エッサイの木」の大工さんは面倒な子どもとの出会いを通して人間性を取り戻しました。日常生活を過すことに喜びを持てるようになりました。私は自分の面倒くささを抱えながら生きることによって、そうした存在がいかに大切であるかを実感させてもらいました。それによって牧師として働くために必要な感性を育んでもらったように思います。面倒な生まれ方をしてきたイエス、十字架に架かって死ぬという面倒な人生を送ったイエス、彼がすべての人の救い主になりました。敬和学園はイエス・キリストという存在を教育の中心にして歩んできました。つまり「面倒」を大切にしてきたのです。「一人ひとりを大切にする」は面倒な教育をすることに他なりません。敬和学園はただ正解を見つけることではなく、自分で考えることを大切に学習を行います。行事や寮生活は考えの違う人と関わりコミュニケーションをとることが求められます。このように敬和学園は時間のかかる、そして手間暇のかかる教育、まさに面倒な教育をする学校なのです。その教育を通して人は顔が輝き、表情豊かな人に成長していくと信じる学校です。