月刊敬和新聞

2015年2月号より「今 この瞬間(とき)に四五回生に贈るにふさわしい言葉とは何でしょうか ―小説「キップをなくして」から考えること―」

小西二巳夫(校長)

キップをなくした体験
 確か中学二年生の時だったと思います。京都の美術館でツタンカーメンのエジプト展が開催されていたので見に行きました。帰りのことです。国鉄、今のJRの大阪駅で私鉄に乗り換える際にキップを出そうとしたらありません。しまったと思いながら、改札の駅員さんにその旨を伝えました。私の説明が終わらないうちに駅員さんは言ったのです。「ホンマか。タダ乗りしたんと違うか」。予想もしない言葉に私はうろたえました。駅事務所に連れて行かれ、あれこれ質問されました。どこから乗ったのか。学校はどこか。事の顛末はベテランらしい駅員さんの「この子、しゃべり方もちゃんとしとるし、制服もきちんと着ているから、悪い子やないやろ。」によって終わりました。

池澤夏樹「キップをなくして」
 私が50年近く前の出来事を思い出したのは、タイトルもズバリ「キップをなくして」という小説を読むことになったからです。「キップをなくして」は私の好きな作家池澤夏樹さんの作品です。そこでタイトルに引っ掛かりを覚えつつもついつい読んでしまいました。物語は1987年の5月、場所は東京です。主人公の少年イタルは小学六年生で切手集めが趣味で、楽しみにしていた切手を買いに国鉄で有楽町という駅までやってきました。改札を出ようとしてキップがありません。いくら探しても見つかりません。様子を見ていた中学生らしい女の人が声をかけてきました。「キップをなくしたら駅から出られない。キミはこれから私たちと一緒に暮らすのよ。ずっと」。イタル以外にもキップをなくした子どもたちがいて、彼らは「駅の子」と呼ばれていました。小説「キップをなくして」は駅の子となったイタルが5月からの2か月間に体験したことが書かれています。

駅の子の生活とは
 駅の子の生活は駅の外に出られず不自由です。けれどそこには他では体験できないある種の快適さと解放感がありました。東京駅は大きく、いろいろなものがあって様々な人がいます。それらとの出会いは新鮮で毎日がとても面白いのです。食事は駅の構内ならどの店で食べてもタダです。キオスクでお菓子ももらえます。着たい服も落し物の中から自由に探すことができます。学習もみんなできちんとします。わからないところは学年の上の人が教えてくれます。さらに駅の子には大きな使命があります。それは朝や夕方のラッシュ時に、電車にうまく乗り降りできない、時には危ない目に合っている子どもたちを助けるという仕事です。低学年の子がホームに落ちそうになった時には、助けるために時間を止めるという力も与えられています。イタルは駅の子として過ごす中で、一人の人間としてどのように生きたらいいのか、大切にすべきことは何かを、自ら考えるようになります。すぐに答えが出ないことや正解がないこと、また自分で考えることの大切さを仲間や駅員さんたち大人の存在を通して知るようになります。やがてわかるのですが、キップをなくした子どもがみんな駅の子になるのではなく、選ばれた子どもだけが駅の子になれるのでした。駅の子を選ぶのは姿を見せない駅長さんです。

敬和生活を彷彿とさせる
 「駅の子」の生活は「敬和生活」を彷彿とさせてくれます。敬和生活はまず姿を見せない神様の選びから始まります。敬和生活を始めることになるのが中学校までの生活で何かをなくすということがきっかけという人、少なくありません。敬和学園の学校生活は寮があるように、そしてスクールバスで通うように、そして毎日が全校礼拝から始まるように、不自由さと不便さを本質として持っています。敬和学園には大人(教職員)も子ども(生徒)も個性的な人が多いと当たり前のように言われます。「神を愛し、隣人を、自分を愛するように愛する」を建学の精神にする学びの中心にあるのは、他者のために自分の存在と力を差し出すことにこそ人間らしい生き方があるとの考えです。そうした学びの連続を通して、敬和生は答えがすぐに出ない課題や問題を自らのこととして真剣に考えるようになります。他者の痛みに共感できるようになります。気がつけば自分の生きる使命とは何かをいつも考えながら生きる人になっているのです。その証人が3年間の敬和生活を終える四五回生です。新しい道を歩む45回生の上に主の祝福が豊かにあることを、そして一人ひとりと共にイエス様が歩んで下さるようお祈りします。