月刊敬和新聞

2015年3月号より「天上大風(てんじょうおおかぜ) ―平和の風は吹いている―」

小西二巳夫(校長)

石碑に刻まれた良寛の「天上大風」
 食べ歩きのテレビ番組の中でのことです。出演者が東京大学の正門前で東大生にお勧めの店を尋ねている時に、一瞬石碑が映りました。はっとしました。それは「天上大風」と刻まれていたからです。その石碑は先の戦争に学徒出陣をして亡くなった多くの同窓生を悼んだものでした。石碑に「天上大風」を選んだのは「同窓生への深い思いを良寛の言葉に託した」からとのことです。当時は神風が吹き戦争に勝つようにと多くの人が祈りました。神風は平和の風とは言えません。それが吹くように祈ることは、結果的に多くの人の命を奪い、悲しみや痛みを作り出し、国と国や人と人の間に憎しみを生みだします。その悔い改めから、再び戦争を起こさず平和な風を吹かせますとの願いを込めて、子どもを優しさと切なさを持って見つめ、その行く末が少しでも幸せであることを祈った良寛さんの「天上大風」を選んだわけです。

宮崎駿監督「風立ちぬ」
 宮崎駿監督はアニメ映画「風立ちぬ」の中で「天上大風」を二度登場させます。この映画の主人公は戦闘機ゼロ戦を設計した堀越二郎です。飛行機の発明と改良によって人間は空を自由に飛べるようになります。堀越二郎はまさにその担い手でした。彼は少年時代から飛行機を作ることを夢に見ていました。やがて念願通り飛行機作りに没頭します。しかしそこに矛盾があります。彼が作る美しい姿の飛行機は戦争のための戦闘機でした。飛行機を改良すればするほど戦闘能力が高くなり、より多くの命を奪う道具を作り出すことになっていったのです。一人の人間が持った夢を純粋に実現しようとする時、思わぬ形で、多くの人たちを大きな悪の渦に引き込むことがあるのです。「風立ちぬ」は人間が本質として持つ矛盾を明らかにします。その矛盾をキリスト教は「罪」と呼びます。宮崎監督はそれを知りつつも、しかしなお、矛盾を越えた生き方を人間はできると考えたのです。そこで主人公の夢に出てくる飛行機の設計者カプローニに「力を尽くしているかね」と何度も語らせ、「天上大風」を登場させたのです。

人間が本質的に持つ矛盾を「罪」と呼ぶ
 人間の行いは、自分の夢や願いを第一にした場合、「風立ちぬ」のように、結果的に多くの不幸をもたらすことが多くあります。それは人間が不完全な存在だからです。けれど、そこに神に尽くす、神のために、との思いを優先させる時、矛盾を超えた生き方が可能になります。それを自らの言葉で人々に教え、今の私たちも語りかけているのがイエス・キリストです。イエス様はどうしたらこの地上にも平和の風を吹かせることができるのか、そのためには誰のために、何を尽くせばいいのかを一言で表わしました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書二二章)。そして、人の生き方はこれに尽きると言われました。

たとえ時代の風が吹き荒れても
 敬和学園はこの言葉「敬神愛人」を建学の精神にしています。敬和生にまず求められるのは、お互いの存在を大切にすることです。特に自分の弱さ、他者の弱さを真正面から受けとめ関わることを求められます。毎朝の全校礼拝から始まる学校生活の中で、授業の中で、行事を作り上げる中で、寮生活の中で、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くす」、つまりじっくりと話し合うこと、他者の言葉に耳を傾けることが求められます。そうした学校生活の中で体感するのは、神と他者を優先することが、何より自分を大切にすることになることです。今、日本社会は賛美歌四一二番の歌詞のように、時代の風が吹き荒れつつあります。戦争の臭いさえする風が吹き始めています。そういう時代にあって「敬神愛人」のもと、敬和学園で三年間学んだ人の使命は決して小さなものではありません。人の目にはすべてが行き詰まっているように見えても、しかし、平和の風である「天上大風」は確かに吹いているのです。主なる神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する、それを優先する生き方から平和が作り出され、違いを持ちつつも共に生きることのできる世界を作り出すことになります。それを体感する学校生活を過し卒業していく一人ひとりが、それぞれの場所で、そこに生きる人の、平和を求めて祈る人の、希望となり励ましとなるのです。そこに敬和学園の教育の大きな目的と願いがあります。