月刊敬和新聞

2015年5月号より「『わたしの選んだ子どもたちをしっかり受けとめなさい』との神の声を聴いた朝」

小西二巳夫(校長)

全校礼拝の毎朝の様子
 敬和学園の一日は全校礼拝から始まります。8時45分にチャイムが鳴ります。それをきっかけに文化委員長がアナウンスをします。「時間になりました。自分の席についてください」。奏楽する生徒(先生)がパイプオルガンの前にスタンバイします。その斜め前の司会者壇には三年生の一人が三年間で一度だけ回ってくる礼拝司会に備えて緊張した面持ちで立っています。その彼(彼女)に文化委員長は礼拝の進め方について最終確認の言葉をかけます。47分前後にチャペル後ろのドアのところで、スクールバスの到着の遅れ等の生徒が入ったことを確認した宗教主任の先生が、前方右側で待つ文化委員長にOKのサインを送ります。それを受けた文化委員長は司会者壇の横におもむろに黙って立ちます。その立ち姿に気づいた人たちから徐々に静かになっていき、チャペル全体に急激な静けさが訪れます。それは沈黙が上から降りてきたとの感じさえします。その瞬間を待っていた文化委員長に促されて司会者が第一声を開きます。「ただいまから礼拝を始めます。目を閉じて黙祷してください」。こうして緊張感とある種の安心感に満ちた礼拝が始まります。

礼拝司会はA君でした
 5月中旬、その日の礼拝がいつにも増して緊張を感じたのは私だけではなかったはずです。司会者壇の右斜め下に礼拝黒板があります。そこには聖書の箇所と讃美歌番号が記されたプレートがかけられます。さらに話をする者、奏楽者と司会者の名前がチョークで書かれます。私がチャペルに入ってまず見るのは礼拝黒板です。その日の司会者名を見たとき、私は一瞬えぇっと思いました。A君の名前が書かれていたからです。私がドキッとしたのは、A君が入学して以来2年数か月の間、私は彼の声を聞いたことがなかったはずだからです。廊下ですれ違う際に、こちらからあいさつしても、唇は何となく動いたように見えるものの、言葉なく通り過ぎていきます。日常的に接するクラス担任や教科担任、そして同級生は彼の声を聴いたことがあるのでしょうか。私はチャペルの一番前右端の席に座るなり、後ろ座っている蔵王クラスの生徒に言いました。「今日の司会、A君やで。君ら彼の声聞いたことあるか」。答えは一応にノーでした。そうこうしているうちに礼拝開始時刻が迫ってきました。司会者壇に立っているA君の傍らには、いつもはそこにはいない文化副委員長が立っています。文化委員長が司会者壇の横に立ちました。すると文化副委員長がA君の肩をポンとたたいて自分の席に戻っていきました。一つの配慮があったのです。文化委員長がいつものように司会者に目で合図をします。

私は神の声を聴いた
 緊張の一瞬です。「ただいまから礼拝を始めます。…」。A君の声がマイクを通してチャペルに響きました。私は確かにA君の声を聴いたのです。しかもその声は想像と違いました。バリトンの伸びのある朗々とした響きを持った声だったのです。私は胸の内で「おおっと」と叫んでしまいました。A君の声にチャペル全体が反応して、空気が一瞬震えたように思えました。。賛美歌の番号を告げる言葉は実に落ち着いています。A君の司会に応えるかのように、歌う声はいつもにも増して大きなものでした。その日、お話のB先生が選んだ聖書の箇所は旧約聖書コヘレトの言葉3章1節「何事にも時がある」でした。それは偶然だったのでしょうか。それとも意図的に選ばれたのでしょうか。B先生に確かめる必要はないと思いました。そこに人間のすべての思いを超えた神の意志が働いたと思えたからです。私たちは彼の存在を受けとめ直すことができたのです。

この一瞬とこの一人に賭ける教育
 礼拝が終わって私は蔵王クラスの生徒に聴きました。「どうやった?」。返ってきた言葉は「歯切れの良い、よく通る声でした」「あの声は才能ですよ。今からでも男子声楽部に入ったらいいと思います」。それに加えて「担任の先生たち、がんばったんでしょうね」と言ってくれました。この一言に教師への気遣いが込められています。3年生は敬和学園が何を大切に教育しているかを、しっかり受けとめてくれているのです。実際にこの日に至るまでにクラス担任、学年主任、スクールカウンセラーの水面下でのサポートが相当あったはずです。この一瞬とこの一人にかける敬和学園の教育が体現された全校礼拝でした。神様はA君の声を通して、「私が選んだ子どもたちをしっかり受けとめ、育てなさい」と語りかけてくださったのです。神様の呼びかけにしっかり応えなければならないと心を新たにした朝でした。